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日蓮大聖人今月のお言葉

2017.05 故郷(ふるさと)
 父母のはかをもみよかしと、ふかくをもうゆへにいまに生国へはいたらねども、さすがこひしくて、吹風、立くもまでも、東のかたと申せば、庵をいでて身にふれ、庭に立てみるなり【光日房御書】

  誰しも故郷を懐かしく思い出すことがある。そのきっかけは様々で、聞き慣れた方言か、草木の薫りか、はたまた故郷の味か。私は無論故郷の味だ。 宗祖の故郷への思いは一入(ひとしお)だ。日本を救おうと鎌倉幕府に対し三度にわたる諫言を行ったが聞き入れられず、鎌倉から身延へと居を移し隠棲された。身延に入る前に一度、故郷の安房国(現在の千葉県)の父母の墓に参りたいとの思いも強かったが、錦を飾ることも出来ていない状況では帰れないと故郷に戻ることを断念したのだった。だが、そうはいっても父母の眠る故郷は恋しかったに違いない。宗祖は吹いて来る風、立つ雲が東方からといえば、思わず庵を出て、その風を身に受け、庭に立ち東からの雲に目をやり、故郷へ思いを馳せたという。どれほど故郷に戻りたかったかと思うと胸が締め付けられる。
また、ご供養としていただいた甘海苔をみて、ご自身の生まれ故郷の事を思い出したという手紙も残っている。
 この時期ちらほら五月病が顔をのぞかせる。慣れない環境に思わず塞ぎ込んでしまうのも無理はない。薫風が鼻をくすぐるこの時期に故郷が恋しくなることだってあるだろう。そんなときは無理せず故郷に帰ったらいい。親や友だちに電話したらいい。故郷は変わらずそこにあるし、親や友だちは話を聞いてくれる。
 私にも経験がある。人に会うのが億劫で、体調が優れないという典型的な五月病。そんな私の五月病は故郷の味でふっとんだ。故郷の力は前に進む力になり、倒れそうな自分を支えてくれる。故郷の有り難さが離れてみてようやく分かった。故郷よ有り難う。
2017.04 生活をみなおす
 夫れ十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。『瑞相御書』

  依報とは私たちが住んでいる環境であり、国土のことを指す。その一方で正報とはそこで生活する私たちのことを指し、依報と正報の関係性を依正不二(えしょうふに)という。光が体に当たることによって影が生み出され、影と体を引き離すことはどうやってもできない。私たちと環境も同じである。人の営みが環境を作り、その環境によって人が育まれる。
 先日、テレビを見ていると、このさき満開の桜が見られなくなるかもしれない、いや、実際咲いても満開にならない地域がすでに出てきているというものだった。その要因の一つが地球温暖化によって桜の咲く南限が北上するというものだった。私たちが今のままの生活をつづけると、いつか桜が見られなくなる地域が出てくる。それが私たちの代なのか、子供の代、あるいは孫の代になるか分からないが、今のままでは確実にその日はやってくる。
 宗祖は『立正安国論』で「汝すべからく一身の安堵(あんど)を思わば、先ず四表の静謐(せいひつ)を祷(いの)るべきものか」と示された。個人の幸せを願うなら、まず社会全体、国土の安穏を祈らなくては個々の幸せは達成されない。世界がぐっと身近に感じることができる現代に生きる私たちだからこそ、もっと広い視野で考え、自分にできることから始めよう。
 私たちが桜に限らず綺麗な花や景色をみて感動することができるように、私たちの次の世代、その次の世代にも当たり前にこの感動が味わえるよう、体である私たちがしっかり自分の足下を見つめなくてはならない。
2017.03 優しい心で
 地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申経もあり、或は西方等と申経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。【重須殿女房御返事】 【兵衛志殿御返事】

  地獄とはどこにあるのか。仏の世界とはどこにあるのか。それは私たちのこの体の内に備わっているという日蓮大聖人のお言葉。地獄のような恐ろしい心も仏のように優しくあたたかい心も私たちの内にあって、その時の状況や心持ちによってそれが感情や行動に表れてくる。仏の心とは慈悲の心。慈悲とは相手の幸せを望み、楽を与え、苦を抜くことをいう。ことわざに「仏の顔も三度まで」とあるが、仏の顔になれるということは、私たちの中に仏がいるということに他ならない。
 東日本大震災から6年の歳月が流れようとしている。あの日、初めて体験する激しい揺れに右往左往し、テレビに映し出された津波の映像に愕然とし、恐怖と不安が入り乱れた。地震と津波によって大勢の方が亡くなられ、悲しさで心が塞がれてしまった。そんなとき目に飛び込んできたのは被災地で活動するボランティアの人たちの姿、大変な状況のなかで被災された方々のためにと労を惜しまない姿だった。少しでも被災された方の力になりたいという思いが画面からも伝わってきた。その姿は、画面を通して私の心の不安も吹き飛ばしてくれた。私もがんばろう。そういう気にさせてくれた。慈悲の心は伝播していき、大勢の力になったことだろう。
 7回忌を迎える。あの時たくさんの人が悲嘆にくれた。それでも私たちの内にある仏の心は消えることなく、何度となく大勢の方々の苦を除き、楽を与えようとしてきた。改めて犠牲者の霊位にお題目の功徳を回向し、行方不明者の帰還と被災地の復興を祈ろう。とびきりの優しい心で。
2017.02 変わり目
 夏と秋と、冬と春とのさかひには必相違する事あり。凡夫の仏になる又かくのごとし。必三障四魔と申障いできたれば、賢者はよろこび、愚者は退、これなり。 【兵衛志殿御返事】

 節分といえば2月3日と思いがちだが、実際は立春、立夏、立秋、立冬の前日を指す。つまり季節の分け目、変わり目ということで「節分」である。特に冬から春への変わり目には豆まきをして疫病をもたらす鬼をはらい、また、その豆を歳の数だけ食べると体が丈夫になり、風邪をひかないといった言い伝えがある。最近では全国的にポピュラーになった恵方巻きはその年の縁起のいい方角を向いて太巻き寿司を一本丸ごと無言で食べると一年間健康でいられると言われる。昔から季節の変わり目を意識し、いかにすごすかということがよく考えられてきたのだ。
 私たちの人生においても変わり目はやってくる。宗祖は凡夫が仏に成るときには必ず三障四魔という仏道修行を妨げようとする障害が発生し、愚者はこれに恐れおののき退いてしまうが、賢者は立ち向かい、むしろその困難を喜ぶという。困難に遭うとひるんでしまう自分はもちろん賢者ではないが、励ましてくれたり、おしりを叩いてくれる人がまわりにいることは何物にも代えがたい大きな財産だ。順調に物事が進んでいるときには気がつかない、そういう人たちの「有り難さ」を困難というものは教えてくれる。
 私は師匠から「その人の苦労というのはその人が背負えるだけのものなんだよ」と言われたことがある。決して自分一人で背負いきれるという意ではない。本人の力に加え家族や友人、様々な人が脇から支え、手をたずさえ、その重さを克服していく、全部ひっくるめての背負える力なのだと思う。この力は一朝一夕では養えない。日々の小さな頑張りの蓄積が大きな力となる。
2017.01 素敵な一年にするには・・・
 燈は油をさせば光を増し、草木は雨ふればさかう、人は善根をなせば必ずさかう。 【上野殿御返事】

 明けましておめでとうございます。本年が皆様にとって幸多き一年となりますようお祈りいたします。
 昨年末、今年の一字ということで「金」が選ばれたが、私が真っ先に思い出したのはリオオリンピックである。一日何時間にもおよぶつらい練習、コンマ数秒のタイムを削るため、あるいはより美しい演技のため、あるいは1mmでも遠くに飛ぶため、およそ私たちが普段の生活では意識したこともないようなところにまで神経を研ぎ澄ませた努力が実を結んだ瞬間があのオリンピックの舞台である。選手達の真剣な眼差しや躍動する姿はキラキラしていて、まさに光り輝いてみえた。
 努力なしではあの舞台にはたてない。私たちが思い描く「幸多き一年」もそうだ。
 日蓮大聖人は、人はいいことをすれば必ず栄えると指南されている。善は種となり、根っことなる。まずは種をまき、大地に根をはろう。根っこが伸び、芽が出て生長し、花がさき、やがて果実がみのる。私たちの種は、他を思いやり、慈しむことで根をはり、芽吹き生長する。植物のように目に見える果実になるのはいつになるかわからないが、人の内面は日々様々に成長していく。だからこそ、長い目でみて、怠らずに意識し、行い続けることが大事である。意識はやがて習慣となり、習慣は人生という果実を実らせる。
 一年は一日の積み重ね、一日は現在(いま)の積み重ねである。現在(いま)を大切にし、善い行いを積み重ねることで人としての魅力がまし、キラキラと輝きを放つ。そんな素敵な人になれるよう努力する一年なら、それこそ素敵な一年に違いない。
2016.12 恩に報いる
 夫(それ)老狐(ろうこ)は塚をあとにせず。白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや。 【報恩抄】

 はやいもので、今年も残すところあと1ヶ月。毎年この時期になると、年頭に決めた目標を達成できたかどうかが気になるが、肝心の目標が何であったかどうしても思い出せない。
とりあえず、今年一年どんなことがあったか思い出してみよう。うまくいったこともあれば、間違ったことをしてしまったこともあった。うまくいったときには、それをねぎらい、声をかけてくれる人がいた。間違ったことをしてしまったときには、それを戒め、諭してくれる人がいた。そういう積み重ねで今の自分があると思うと素直にありがたいなぁと思え、胸のあたりがじんわり暖かい。
日蓮大聖人は、「年老いた狐は故里を忘れず、死ぬ時はかならず首をもと住んでいた丘に向けるし、毛宝という人に助けられた白亀はその恩を忘れず、毛宝が戦いに負けた時に水の上を渡して窮地を救った」という話を引用し、動物ですら恩を忘れず、その恩に報いようとしているのだから、ましてや人間ならば当然のことだとされている。
 昔話にも動物の恩返しの話は数多い。中でも「つるの恩返し」は多くの人が知っている話だろう。罠にかかっているところを助けてもらった鶴が女性に姿を変え、機を織って反物にし、助けてくれた人へ贈る。助けてもらった恩に対し、何をもって報いるのか。つるにとっては機織りであった。では、日々受ける恩に対して私たちは何ができるだろうか・・・
 まずは自らの一日を思い起こし、恩について考えることからはじめてみよう。どんな恩があるだろうか。大きな恩、小さな恩、みえる恩、みえない恩。明に暗に様々である。恩について思いを巡らせると、不思議と行動に出てくる。そもそも恩という字にはいつくしみや大切にするという意味がある。自分が受けるいつくしみの心に思いを馳せるとき、その心に暖かい優しさが生まれてくる。その優しさをもって日常をすごすとき、今度は周りの人があなたの優しさに包まれることだろう。
2016.11 名前
 法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名く。日蓮又日月と蓮華との如くなり。 【四條金吾女房御書】

 名は体を表すということわざがある。名前はその物や人の性質、実体を表すものという意味合いだ。ならば自分は?と思い辞書をひっぱりだして自分の漢字を調べてみた。今の自分には似つかわしくないなぁと落胆しながらも、足りない部分は「のびしろ」だと言い聞かせて辞書を閉じた。
 我等が宗祖日蓮大聖人の名前の由来は法華経の経文にあり、如来神力品第21の経文に「如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇」(日や月の光明によって、諸々の迷いを除くことができるように、この人が世の中に出て、活動すれば衆生の闇を除くことができる)とあり、ここに「日」の根拠があるという。「蓮」については従地涌出品第15に「不染世間法 如蓮華在水」(水中の蓮華のように世間の悪に染まらない清らかさ)の経文からとって「日蓮」と改名された。
 名付けることを「命名」というが、大聖人の名前は経文からただ二文字選び取ったということではなく、ご自身がこれから先の命をどう生きるのかという覚悟をこの二文字に込め、宣言することに重きが置かれていたのだと思えてならない。「名」のつくことわざには、虎は死して皮を留め、人は死して名を残すというのもある。人は死んだ後、名前が残るような生き方をすべきという意味である。大聖人は決して自分の名を残そうとして他宗を批判したり、幕府に進言したのではない。南無妙法蓮華経のお題目を一人でも多くの人に弘めたい。その一心であった。まさに名前のとおり、権力や名声に脇目も振らず、ただ一心に悩み苦しむ人に寄り添い、その助けとなろうとされたのである。
 大聖人のお気持ちや願いは、大聖人が亡くなって734年がたった平成の世にも受け継がれている。それを受け継ぐ一人として、自分ののびしろを信じて、日月が毎日大地を照らすように、不断の努力を心がけたい。「のびしろ」という言葉にあぐらをかいていては何も受け継ぐことはできない。
2016.10 頼りがい
 後世(ごせ)は日蓮の御房にまかせまいらせ候 【四條金吾殿御返事】

 誰であってもやったことがないこと、行ったことがない場所というのは不安がつきまとう。私にしても初めてパラグライダーをやった時は、飛ぶ前から落ちるんじゃないかと思ってしまい、無口な私の口がさらに固く閉ざされ、足に根がはってしまった。そんな時インストラクターさんが「大丈夫、指示通りにやればすぐ楽しめますよ」と言う。騙されたと思ってやってみると体は鳥のように空へと舞い上がり、素敵な景色を見ながら楽しい時間を過ごせた。その道に長けた人からの言葉によって、心が軽くなる。そういう言葉をかけてくれる頼りがいのある存在がいるというのはとても心強いものだ。
 私たち人間にとっての共通の不安の一つに「死」というものがある。後世(ごせ)、つまり死後のことは誰にも分からない。その不安を抱く人や今まさに死に直面する人に対して生涯を通して向き合ったのが宗祖日蓮大聖人である。宗祖の時代には天変地異がつづき、飢饉がおこり、明日自分がどうなるか分からない、そんな日々が続いていた。宗祖はその原因と対策を導き出そうと経文に当たり、その答えを生涯実践された。その答えというのが法華経、お題目の信仰である。宗祖自身、焼き討ちにあい、首を切られそうになるなどの苦難にあってきた。けれども、その度に信仰によって生かされてきた自分の境涯があったからこそ、悩み苦しむ信者の身になり、その境遇や心情に寄り添い続けることができたのだろう。
 宗祖が歩まれたご生涯、そしてそこから見いだされたお題目の信仰こそが、現代の私たちにとっての頼みであり、その尊いご生涯と南無妙法蓮華経のお題目に私たち自身が身を任せ、頼りとすることが大事なのであり、いわば宗祖は人生の案内役、その指南こそ法華経、お題目の信仰なのだ。
 10月、11月は宗祖の御会式が全国各地で行われる。大聖人に感謝の意を表し、心ゆくまでお題目をお唱えしていただきたい。
2016.09 基本が大事
 信なくしてこの経を行ぜんは、手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるが如し。

 7月、8月はお盆の時期だ。ご先祖様と共に過ごすこの期間に、是非「いのち」の繋がりを考えて欲しい。
 ものごとがうまくいくには基礎基本が確かでなければならないのは自明の理であろう。
 それはオリンピックに出場する選手であっても同様のことだ。リオオリンピックが始まる前、ウエイトリフティングに出場する三宅宏実選手の特集がテレビで組まれていた。彼女はロンドンオリンピック後に大けがを負い、満足に練習できなかったが、その中で取り組んだ1kgという軽いバーを上げ下げする基本練習の中で自分の力が最大限発揮できる形を見いだしたという。来る日も来る日も、この練習を繰り返し、迎えたリオオリンピックでは見事に銅メダルを獲得した。競技終了後、彼女がバーベルに駆け寄り、重りに顔を近づけて撫でる仕草は、これまで苦楽を共にした仲間への感謝の気持ちが溢れ出たようにみえて、思わず目から涙がこぼれた。
 信仰においての基礎基本とはなんだろうか?宗祖の御文にある通り、それは「信」である。基礎基本とは一朝一夕で確立されるものでもないし、上手くできるようになったからといってやめてしまっていいものでもない。三宅選手が行った1kgのバーを上げ下げする練習は、ウエイトリフティングを始めたばかりの子どもがやる練習だそうだ。それを世界トップクラスの選手がやるのだ。信仰も同じだ。信仰し始めたばかりの人、若い僧侶、そして老僧であっても「信」がなければ何も得られない。
 信仰の道程は果てしない。ただ、歩き出すのにも、歩き続けるのにも必要なのは立派な靴でもなければウェアでもない。「信」のみ心に抱いて、手を合わせる。ただそれだけだ。
2016.08 いのちの繋がり
 目連尊者が法華経を信まいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給。 
 上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給。【盂蘭盆御書】


 7月、8月はお盆の時期だ。ご先祖様と共に過ごすこの期間に、是非「いのち」の繋がりを考えて欲しい。
 上記の御文にある上七代を例に取ってみよう。自分を中心に考えたとき、自分に父親と母親がいる(2の1乗)。その両親にも親が2人ずついる(2の2乗)。その親にもまた2人ずつ親がいる(2の3乗)。このように7代遡ったときの先祖の数は2の7乗、つまり128人。合計は254人にのぼる。このうち誰か一人でも欠けてしまっては、今ここにいる自分はいないということになる。「いのち」の繋がれた結果が今ここにいる自分であり、その繋がりは人が生まれ、成長し、沢山の人と縁を結び、「いのち」を育むという長い時間の中で紡がれたものだ。その時間の流れの中にいる私たちが次の「いのち」に対してどう向き合うのか。自らが子供を産み、自らの子供を育てるだけが、「いのち」をつなぐことではないと思う。
 法華経には他者を軽んじない姿、敬う心等が説かれる。この法華経に示された姿を私たちが普段の生活で実践することが信仰であり、次の世代にみせることが「いのち」を育むことに他ならない。そうした他者を敬う姿を見た子供たちが、次の「いのち」の担い手となる。「いのち」の担い手を育むことも、「いのち」を繋ぐことなのだ。
 私の身内にも新しい「いのち」が増える。私たちも、ご先祖様もみんなが笑ってすごせる、そんなお盆が毎年迎えられるよう、今を生きる私たちが「いのち」を大切にし、敬い、育む。そんな「いのち」が一つ、また一つと増えたなら、ご先祖様もキュウリの馬でいち早く帰ってきてくれるだろう。
2016.07 動物への愛情
 くりかげの御馬はあまりをもしろくをぼへ候程に、いつまでもうしなふまじく候。常陸の湯へひかせ候はんと思ひ候が、もし人にもぞとられ候はん。【波木井殿御報】

 上記の御文は、宗祖日蓮大聖人が持病の静養のため常陸国の湯に向かわれた途中で書かれた手紙の一節だ。宗祖は自分が乗っていた栗鹿毛の馬に大変愛着を持たれ、いつまでもそばに置き、常陸の湯まで共に旅をしたいと思っていたが、その一方で、この先の旅で誰かに盗まれるかもしれない、大変で、つらい思いをさせたくないという思いから、泣く泣く信頼の置ける方の元に預けることにした。それに加えて、慣れない世話方では不安だからとこれまで世話をしてきた者をつけておきたいという文が後に続く。何が馬の為になるのかと考え抜かれた上での決断だったことが伺える。
 昨今は空前のペットブームといっても過言ではない。犬や猫は勿論、フクロウやサルなどもペットとして飼われているようだ。ペットが見せる仕草や愛くるしい眼差しは私たちを癒やしてくれる。そんなペットだからこそ、四六時中離れたくないというのも頷ける。だが、本当にペットの事を思うならばどうだろう?たまには、そっとしておく時間も必要だろうし、ただ愛でるだけでは片手落ちな気がする。かわいいペットもやがて命の果てるときが必ず来る。ペットからもらったたくさんの笑顔、今度は私たちがなにかできないか慮ってこそ本当の愛情だろう。
 七月を迎え、お盆の季節がやってきた。ご先祖様を迎えるキュウリの馬、お土産とともにご先祖様をお送りするナスの牛が各家々で活躍する。役目を終えたならば、頑張ってくれたこの馬や牛にも心を砕いてもらいたい。
2016.06 自分を成長させてくれる存在とは? 相模守殿こそ善知識よ。【種種御振舞御書】
 ある日曜日の夜、電車に乗っていると部活帰り風の二人組の女子高生の会話が耳に入ってきた。内容は全く覚えていないが二人の明るい話し声から充実した週末だったことが伺える。そんな中、スマホを取り出して女子高生がこう言った。 「あぁあ・・・。『いいね!』ボタン、ガンガン押してくれる友だちがほしいなぁ」 そんな言葉が耳に止まった。『いいね!』ボタンとはネット上で、ある特定のコンテンツが好き、楽しい、支持できるといった意思を示す機能である。いいね!をしてもらうとなんだか嬉しくなる。そんな経験を私もしたことがある。だが、共感し、認めてくれる存在のみで今の自分より、よりよく生きることができるだろうか?
 上記の御文にある相模守殿とは宗祖日蓮大聖人を佐渡流罪に処した張本人、時の執権 北条時宗だ。宗祖にとっては自らの命を危機的状況に追いやった人物なのだが、宗祖はそんな北条時宗こそ仏教の正しい道理を教え、利益を与え導いてくれる善知識だといっている。宗祖は佐渡の厳しい環境で生きる中で、末法の時代に生きる人々を救う真の宗教(本門八品上行所伝本因下種信行の南無妙法蓮華経)を見極められたのだ。
 自分の意見や行いに無条件に賛同してくれる人には何となく近寄りやすい。でも自分にとって本当に必要なことは耳が痛いものであったり、苦労した末に見いだせることが多い。私も修行時代、友人に辛辣な言葉をかけられた。その時はなんだと!と、思ったがその言葉がどこかひっかかって自分を見つめ直すきっかけになった。
 自分にとって耳が痛い言葉や苦しい状況をどれだけ素直に受け止められるかで明日の自分が変わってくる。ネットで自分の書き込みや写真に共感してくれる人も大事だろう。だけれども自分の痛いところをついてくれる存在も毛嫌いせず真摯に向き合ってほしい。そういう存在こそ自分を成長させてくれるのだから。
2016.05 妄語(もうご)せざる時はありとも、妄語をせざる日はあるべからず。 設(たとい)日はありとも、月はあるべからず。設(たとい)月はありとも、年はあるべからず。設(たとい)年はありとも、一期生妄語せざる者はあるべからず。【顕謗法鈔】
 妄語とは「うそをつく」ことで、仏教では五戒の一つに、うそをつくことを戒めている。小さい頃、「嘘つきは泥棒の始まりだよ」と言われたが、生まれてこの方、いくつ嘘をついてしまっただろうか。人を驚かせようとか、自分を守るためとか、失敗を隠すためとか。
 数年前だったか、家族に対してある嘘をついた。私としては他愛もない、冗談のつもりだったが、嘘がばれると家族から「冗談に聞こえない!」と叱られた。なんとも嘘とは後味の悪いものだろうか。
 嘘をつかない時間、嘘をつかない日、嘘をつかない月があったとしても、嘘をつかない年、一生嘘をつかない人、そんな人はいないだろう。嘘つきは泥棒の始まりというが、かの大泥棒カンダタは、地獄から逃れようと極楽から垂れてきた蜘蛛の糸をたぐり自分だけ助かろうとし、最後には蜘蛛(くも)の糸がぷつりと切れて地獄へと再び落ちていく。
 嘘も積み重なれば、いずれは浅ましい自分へと変わる土台となってしまう。その土台とは私たちの心に他ならない。そんな心にならない為に今一度、手を合わせ、お題目を唱えて自分を振り返る事が必要だ。 嘘の右側の「虚」には「むなしい」という意味がある。一方で、虚心といい、ありのままを素直に受け入れること、心にわだかまりがないことをも指す。実に紙一重だ。自らのむなしい心が口をつくのが嘘ならば、その嘘に気づいて自らの心を振り返る。いけないなと心に留め置き、反省した心が虚心だろう。 風薫る五月。私の心も新緑の葉を揺らすさわやかな風のようになるよう、今日もまたお題目を唱えよう。
2016.04 御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。 『檀越某御返事』
 4月は新しい生活を始める人が多くいる。新しい生活が始まるということは、縁がうまれ、新しい人間関係ができるということだ。その中で仕事に対して、あるいは人付き合い等の不安を覚える方もいるだろう。出来ることなら平穏無事に仕事も人付き合いもこなしたいと思うのが人の常だろう。だが、仕事や相手のことをよく知らないから上手くいかず、悩むこともあるだろう。挙げ句の果てに、こんな仕事になんの意味があるんだ!なんであの人はこうなんだ!と自暴自棄になってしまうこともあるかもしれない。
 日蓮大聖人は信者への手紙のなかで「君主につかえることを、法華経を実践していることだと考えなさい」と示している。法華経には大事なことの一つとして「どんな相手も軽んぜず、敬う」ということが説かれている。いい結果が欲しいと焦らず、まず他に対して敬う心で接し、上手くいかなくとも、誠意を持って取り組むことが肝要だ。法華経の実践によって自分の心が磨かれ、仕事や人間関係を通して素敵な自分へと成長していくことで、結果的に良好な人間関係を構築し、誇りをもてる仕事へと変わっていくことだろう。
 この春、同じ職場の同僚が新天地へと羽ばたいていった。彼の大きさを感じると共に、新天地でもこれまで同様、誰にでも優しく真心をもって接する姿でいることを願うばかりだ。
2016.03 法華経の行者の祈のかなはぬ事はあるべからず。『祈祷鈔』
 私の中で 3月といえば卒業だ。一緒に馬鹿をやった同級生、親しくした先輩や後輩、慣れ親しんだ学校と別れるのはさみしい反面、新たな生活に期待で胸を膨らませる、そんな月だった。
だが、東日本大震災で私の中の 3月は悲しみの一言に塗り替えられた。
 大地震と津波によって2万余名の方が亡くなった。2万余名という数はただの数字ではない。その一人一人に親がいて、友がいて、時には笑い、時には泣きながら歩んできた、まぎれもない「人」の数なのだ。
 景色も大きく変わってしまった。部活の合宿で何キロも走った松が茂る砂浜。当時はもう見たくもないと思ったあの松が茂る砂浜は、今はもうない。
 あれから 5年の歳月が流れる。悲しみに支配された私の中の 3月に「祈り」が加わった。今を生きる自分に何ができるのか。
 亡くなった方々の成仏を祈り、被災地の復興を祈り、被災された方々の心の復興を祈る。たくさんの人の祈りが、被災した人や土地が立ち上がり、前に進む糧になればと願ってやまない。
2016.02 かくれ(隠)たる事のあらはれ(顕)たる徳となり候なり。 「崇峻天皇御書」
 上記の御文は人知れず行った善い行いが、外にあらわれてその人の徳となるということだ。 ある日、混み合う電車の中で吊革につかまっている老人に席を譲った若者をみた。どこか恥ずかしそうにうつむく若者。そんな若者に「ありがとう」の感謝の言葉が贈られた。うつむき加減の若者は降りる駅がきたのか、そそくさとその車両を後にした。それでも若者がした良い行いの徳は周りを温かく包んだ。ゆずられた老人のほっこりした笑顔、その様子を少し離れたところで見ていた私も胸のあたりがなんだかあったかい。私だけじゃない。ほかの乗客も若者の優しさに触れどこか顔がほころんでいる。
 優しさの底には「敬う心」が流れている。「敬」の語源をひもとけば、うやうやしく神に仕える心に行き着く。普段の私たちにもこの心が求められる。だが、「神に仕える心」とは、なかなかイメージがわかない。
ならば手を合わせて、相手の心と向き合おう。そこから生まれる振る舞いが「敬う」ということに違いない。自分が実践すれば、自分が変わり、いずれ他をもかえられるだろう。あの若者のように敬う心が育てば、温かい空気を運ぶことができるに違いない。
2016.01 人に物をほどこせば我身のたすけとなる。譬へば、人のために火をともせば、我がまへあきらかなるがごとし。「食物三徳御書」
 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。
とかく、私たちは自分のことを第一に考えがちになることが多い。もちろん私もそのうちの一人だ。「これは自分の分だ!」と物を囲い込んでしまうこともよくあることだ。きっとそんな私の顔は輪をかけて浅ましいことだろう。常日頃から上に挙げた御文のような心持ちで過ごせるようになりたいものだ。
先日借りたある方の遺稿集の中の一説に、「箒をもって庭を清め、雑巾によって板間を磨く事は他人の為のように思っていたのだが、この頃ようやく自分自身の一分を清めるという事だと感ずるようになった」という部分があった。まさに日蓮大聖人のお言葉を体現されたのだ。
この方には私が中学生時分にたった一度お会いしただけだったが、今になってもう一度お目にかかりたかったなぁと目頭が熱くなった。あのお方のような境地にいたるのは私には到底無理だろう。ただ、年の初めに届いた年賀状に綴られた沢山の「今年一年のご多幸をお祈りします」の文。いただいたこの言葉を自らの心に宿し、今度は別の人にこの心でもって接する一年にしたいと思う。「俺のだ!!」といってた私も、「お一つどうぞ」と言えるようになれるよう今年一年も頑張ろう。
2015.12 小罪なれども、懺悔せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども、懺悔すれば罪きへぬ。「光日房御書」
 ちょっと前まで蝉がけたたましく鳴いていたかと思えば、いつの間にかコオロギの声にかわり、最近ではその声も聞こえなくなってきた。そのかわりといってはなんだが、クリスマスイルミネーションが目を楽しませてくれる季節になった。思い起こせば今年の一月にどんな思いでこの一年を過ごそうか思案したが、いくつ実行できただろうか。目標や予定を書き留める手帳は次月をめくることはあっても、先月を見返すことはなかなかない。ましてや一月ともなればなおさらで、一日という時間の流れに身を任せ、明日へ明日へと流される。
 だが一年の終わりに、今の自分はどうなのか見つめ直してみてはどうだろうか。今の自分は昨日の自分の積み重ねである。一生懸命頑張った昨日の自分、悲しくて悲しくて目を真っ赤に腫らした一昨日の自分、全部ひっくるめて今の自分がある。そんななかで嘘をついたり、怒りにまかせて怒鳴ったりした自分がいたかもしれない。普段の生活の中で小さいながらも私たちは罪を重ねている。そんな自分を省みなければ、明日の自分は文字通り悪道を一歩、また一歩と進んでしまう。
 何故あんな事を言ってしまったのだろう。あんな事しなければよかったと、自分の胸に手を当てて振り返れば一つや二つ、三つや四つ、五つや六つ・・・数限りなく思い出される自分が情けない。その手を今度はそっと胸の前で合わせお題目(南無妙法蓮華経)を唱える。これが今の自分であることを認めなくてはならない。そこから今度はあんな事は言わない、あんな事をしない自分への一歩を踏み出すのだ。お題目はその力を与えてくれる。一歩を踏み出す人の背中を押してくれる。そうやって昨日の自分を越えていこう。明日の自分に胸を張れる自分になろう。大それた目標も大事だが、毎日の積み重ねが無ければ越えられる壁も越えられない。一日で越えられない壁は二日かかって越えればいい。いつでもお題目は力を与えてくれる。 また来年も、元気に笑って過ごせるように、この一ヶ月、胸に手を当て、そしてその手を合わせ過ごしていこうと思う。
2015.11 女人となる事は物に随って物を随える身也。夫楽しくば 妻も栄うべし。「兄弟抄」
 日本には語呂を用いた「◯◯の日」が沢山ある。例えば3月3日は桃の節句だが、「耳(3.3)の日」でもある。また1月5日は受験勉強で忙しい15歳を応援する「いちご(1.5)の日」というのがあるそうだ。数ある「◯◯の日」のなかでもよく聞くものに11月22日「いい夫婦(11.22)の日」がある。
 女性は結婚し、嫁入りすると2つの新しい生活が始まる。夫との生活と夫の「家族」との生活だ。特に「家族」の習慣や暗黙の了解といったものは、家族の数だけ異なる。初めのうちは、その違いに戸惑い、面食らうこともあるだろう。しかし時間を経るごとに次第にお嫁さんの色も加わり、また新しい「家族」が出来上がる。これが、日蓮大聖人がいうところの「物に随って物を随える身也。」ということだろう。
夫が楽しければ、妻も栄えるとあるが、きっとまた逆もしかり。妻が楽しければ、夫もまた栄えるに違いない。自分だけが楽しい、幸せだと感じているのは真の幸せではない。相手が楽しい、幸せだと感じてくれることが自分の幸せにもつながってくる。これが真の幸せに違いない。自分だけが快適で楽しい生活をしようとしてしまうと相手に対する感謝の気持ちが足りなくなってしまう。例えば朝起きて、当たり前のように朝ご飯が出来ている。何も言わずにドカッと腰を下ろして、料理に箸を付ける。ここで一言ありがとうと言えるなら、自分も相手にとっても素敵な一日の始まりとまでは言わないが、どこか優しいあったかい一日が始まるのではないだろうか。
 かくいう私も昨年の「いい夫婦の日」に結婚し、感謝の気持ちを忘れまいとしているが、日常に流され、ついつい感謝の言葉がおざなりになってしまう。しかも感謝の言葉がすんなり出てくればいいが、ちょっと気恥ずかしいところもあるから厄介だ。だが、こんな私に尽してくれる妻に対して、語呂の力を借りて、私の気持ちを込めてささやかな贈り物でも考えてみよう。1月31日(愛妻の日(I.31))が丁度よさそうだ。
2015.10 宅(いえ)に柱なければ保たず、人に魂なければ死人なり。「種々御振舞御書」
 私が小さい頃住んでいた家のある柱には、私や弟妹の成長の軌跡が刻まれ、その当時流行していたキャラクターのシールが貼られ、私の下手な字が書いてあった。あるときには、はしゃいで走り回り、柱にぶつかって泣いたこともあった。それをみて家族は心配そっちのけで大笑い。そんな空間を作ってくれていたのが、家であり、それを支えていたのが柱である。家が家としての役割を果たすには、しっかりとした柱があってこそだ。
 人にとっても同じ事がいえるのではないだろうか?人が幸せな人生を送りたいと思ったとき、思っただけでは幸せな人生は手に入らない。自分の中に一つ柱を立てて、それに従って毎日を生きたときに、自ずと幸せを感じられるのではないだろうか?
 法華宗を開いた日蓮大聖人は法華経、南無妙法蓮華経を心の柱とされ、幾度となく繰り返される迫害にあっても、全ての人々が仏になれるよう、安心して暮らせるように南無妙法蓮華経を弘通された。大聖人と同じように私たちが生きるのは難しいが、大聖人が命をかけて弘められた南無妙法蓮華経を心の柱とし、他者を少しでも思いやって生きていきたい。 10月、11月は全国各地で大聖人の御命日の法要「御会式」が営まれる。私たちの心の柱たる南無妙法蓮華経を心に立てて、お題目を唱えて、南無妙法蓮華経を残して下さった大聖人に感謝の心を示し、より心の柱を確たるものにしていただきたい。
2015.09 月は山よりいでゝ山をてらす。わざわいは口より出でゝ身をやぶる。さいわいは心よりいでゝ我をかざる。「重須殿女房御返事」
 出来ることなら、今発した言葉をもう一度自分の口に戻したい!そんな経験は誰しもが少なからずあるのではないだろうか。
昔、友達と喧嘩をしているとき、私が発した言葉が相手をたたきのめしてしまった。その喧嘩はそこで終わった。喧嘩に勝ったはずの私であるが、私の心に晴れやかさは微塵もない。むしろ、暗く重いものがどっしりと居座ってしまった。それから数日、その友達とは口もきかず、目も合わさない日が続いてしまった。
 一方で、中学一年生の時、野球部員だった私は、先輩達の試合をスタンドから応援していた。毎日、一生懸命練習する先輩達が、普段通りのプレーを出来るようにと、声を嗄らして応援した。試合後、先輩から「ありがとう。ホントに力になった。また頼むよ。」と声をかけてもらった。私の声が先輩の力になったと知り、とても嬉しかったのを覚えている。
 いがみ合う中で発せられた言葉は相手だけではなく、自らの心を暗くさせ、その結果、せっかくの関係が壊れそうになってしまった。かたや、相手を思い、相手を敬う行動は、相手だけではなく、自分も幸せな気持ちにしてくれた。相手を敬い、真心で普段(不断)を生きることは、相手を幸せにし、自分が幸せだと気付かせる心を呼び起こしてくれる。その心とは、当たり前のことが実は有難いことだと感謝する心。そんな心を持っている人はきっとキラキラと輝いているに違いない。そんな人に私もなりたい。
2015.08 蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。「崇峻天皇御書」
【蔵の財である金銭や物品などの価値は絶対ではなく、時や場合によって変化し、時には一瞬にして無価値になってしまう。これよりは身の財である自らの健康や学識、教養などは儚いものではない。しかし、この身の財も自らの幸福のみを目的にするのではなく、世界全体の幸福が目的で、これを願う心、心の財が第一である。】「崇峻天皇御書」(参考:株橋日涌著 法華法話集 東方出版)
 「先立つものがない」といえば、「お金がない」と想像がつく。辞書をひいても「ある目的を達成するために必要な金の婉曲(えんきょく)な言い方。」(大辞林第三版)とあり、何かを成し遂げるためには、まずお金が必要だ。
 だが、何かを成し遂げようとせっかく貯めたお金も自分の体がしっかりしていなくては、なにも成し遂げられず、道半ばで終わってしまう。
 そもそも、何を成し遂げるかは自分自身の心で決める。その心が健全でなくては、得られる結果はどうなるだろうか?
 世間を騒がせているとある名門企業の経営理念は、人を大切にし、豊かな価値を創造し、社会に貢献するというものだそうだ。長年、使う人の身になり、もっと豊かな生活が送れるようにと思いを巡らせて、一歩一歩、歩みを進め、名実ともに日本を代表する企業となったのだろう。しかし経営の舵を取る船頭の心はいつの間にか、違う高みへと舵をきった。その結果が信用や信頼というお金には変えられないものの喪失だ。
 人ごとではない。私たちも様々な選択をしながら生きていく。よりよい選択をするためにも自らの心を養わなくてはいけない。法華経は揺るがない指針であり、お題目は何よりの妙薬である。信じて唱えることで、知らぬ間に心が清く豊かになる。その心で日々を生きれば、親からもらった体、仲間、今手元にあるお金、色々なものがありがたいと感じてくるだろう。先立つものがお金ならば、先立つ心は法華経、その心を養うのはお題目にほかならない。

四大本山

  • 大本山 光長寺
  • 大本山 鷲山寺
  • 大本山 本能寺
  • 大本山 本興寺

今週の法華宗行事予定(5.21〜5.27)

5.23
・法華宗第72次宗会(~25日)
 【宗務院】
5.25
・月例開山講(14:00~)
 【大本山本興寺】
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