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日蓮大聖人今月のおことば

2024.2 一切衆生のためには 釈迦佛は主なり師なり親なりー『妙法比丘尼御返事』ー
 この文言は日蓮大聖人が五十七歳の弘安元(一二七八)年、身延でお書きになられた『妙法比丘尼御返事』という御書に書かれている一節です。妙法比丘尼は、大聖人のお手紙では妙法尼とも書かれています。この人物の詳細については諸説ありますが、最近の研究では、現在大本山光長寺様がある、静岡県沼津市岡宮周辺に住んでいたご信者であると言われています。
 このお手紙は、真蹟は現存していませんが、大聖人が佐渡でのご様子や身延でのご様子を記されていることから、大聖人の自叙伝として古来大切に読まれてきたお手紙です。
 一切衆生、つまり、この世に生きる全ての人にとって、釈迦佛は主人であり、師匠であり、親である。これは、大聖人が言い出したことではありません。
『法華経』の譬喩品第三に釈尊の言葉として
過去、現在、未来にあるものは全て釈尊の所有するものであり、その中にいる衆生、すなわち過去、現在、未来に生きる全ての人は釈尊の子供である。
と書かれています。大聖人は、先師の言葉ではなく、釈尊の言葉即ち経文を大切にされていました。それは釈尊御自身が「法を頼りとし、人を頼りとしてはならない」とおっしゃっているからです。大聖人が書かれたものの中にもこの言葉はしばしば引用されています。
 私たち衆生にとって釈尊は親であるということは、仕えるべき主人であり、私たちを導く師匠であることは、私たちが子育てをしたときに感じることが出来ることです。特に小さい子供にとって親は主人であり師匠であることは、実感された方も多いでしょう。
 私たち今に生きる者は、釈尊滅後の末法に生きる者であり、釈尊からすれば幼稚な幼子のようなものです。 そのことを自覚し、釈尊への感謝の気持ちを持ち、釈尊、大聖人が私たちに示してくださった、
本門八品上行所伝本因下種之南無妙法蓮華経
をお唱えすることが最も大切なことであります。
 今月十五日はその釈尊が涅槃された日、そして翌十六日は大聖人がお生まれになった日です。改めて感謝のお題目をお唱えして参りましょう。
(芹)

2024.1 早く信仰の寸心を改めて 速やかに実乗の一善に帰せよー『立正安国論』ー
 この文言は日蓮大聖人が三十九歳の文応元(一二六〇)年、鎌倉でお書きになられた『立正安国論』という御書に書かれている一節です。大聖人の著述として最も有名なものの一つです。
 時の権力者であった最明寺入道(北条時頼)に宛てて書かれた諫暁の書であり、当時鎌倉のみならず全国で隆盛していた浄土宗及び法然上人を強く批判されています。形態としては客と主人の問答という形をとっています。古来、客が最明寺入道、主人が大聖人であると言われております。
 そもそもこの書は、正嘉元年(一二五七)八月に発生した鎌倉大地震などの天災がその著述の由来とされています。なぜ、この国には災害や疫病が発生し、人々が苦しまなければならないのか。その答えとして大聖人は、誤った仏法が蔓延しているため、国を護る善神が国を捨て、代わりに悪神・悪鬼が入り込んできているからだ。と述べておられます。
 その解決策として「あなたは早く信仰の心を改めて、速やかに正しい教えに帰依しなさい。」と示されたのです。「早く」「速やかに」という言葉から、一刻の猶予もないのだという、大聖人の危機感を感じ取ることが出来ます。
 年が改まりましたが、依然として世界各地では紛争が絶えず、国内もコロナ禍以降、経済が好転しない状況が続いています。災害も昨年は「沸騰的」とまで言われた猛暑や火山噴火、大雨等がありました。まさに危機的状況と言えましょう。
 そうした時だからこそ、一刻も早く全ての人が正しい教えに帰依する、即ち
本門八品上行所伝本因下種之南無妙法蓮華経
をお唱えすることが求められます。
 お題目を唱え弘めることこそ大聖人がお持ちであった危機感の共有であり、お心に叶うことであろうかと思います。今年も皆でお題目をお唱えし続ける一年にいたしましょう。
(芹)

2023.12 南無妙法蓮華経とばかり唱えて佛になるべき事もっとも大切なりー『日女御前御返事』ー
 今年最後のカレンダーの聖訓は日蓮大聖人が五十六歳の建治三年(一二七七)にお書きになられた『日女御前御返事』という御書に書かれている一節です。
 この御遺文は日蓮大聖人に対して供養を送られた日女御前に対する返事です。日女御前については御遺文の中で多くの品を日蓮大聖人に供養していることから経済的に豊かであった信者であることがうかがえますが身元については定かではありません。
 今月の聖訓は「南無妙法蓮華経と唱えて成仏をとげることがもっとも大切である」とのお言葉です。
 この御遺文の中では「本尊」について言及されており、本文のはじめには釈尊が説かれた教えの中で法華経のうちにも法華経の後半部分である本門八品(従地涌出品第十五~嘱累品第二十二)に私たちが拝むべき本尊が顕されていると説かれています。
  本尊」とは一般的には礼拝の対象となるもののことですが、詳しく言えば「根本尊崇」と「本有の尊形」という言葉としての意義があり「根本尊崇」とは「本として尊ぶ」ということで信行の手本になる、修行の根本として拝むという意味があります。「本有の尊形」とは「本より尊し」の意味で本来の尊い姿が南無妙法蓮華経のお題目を唱えることにより出されるということです。
 お寺の本堂や皆様の家の仏壇にも南無妙法蓮華経のお題目が中央に書かれ、その周りに十界の聖衆(全ての生存領域の存在)を代表する仏様や菩薩、善神等が顕わされた十界曼荼羅が掛かっているかと思います。この十界曼荼羅は本仏釈尊から上行菩薩、その上行菩薩の応現である日蓮大聖人を通じて私たちまで南無妙法蓮華経のお題目が連綿と伝えられる事が顕わされています。
 日蓮大聖人が本尊としてお示しになられたのはこの南無妙法蓮華経のお題目であり、その根拠は法華経の本門八品に説かれています。私達法華宗の信徒はこの南無妙法蓮華経に南無(帰依する・拝む)することを根本として自覚しなくてはなりません。南無妙法蓮華経は私たちが拝むべき本尊であると同時に唱えて信行することにより私たちの成仏の種ともなるもの、まさしく法華経本門八品に説かれ上行菩薩より私たちに伝えられた、仏に成るための種を下す(本門八品上行所伝本因下種の)南無妙法蓮華経なのです。
(寿)

2023.11 一乗の羽をたのみて寂光の空をもかけりぬべしー盂蘭盆御書ー
 今月のカレンダーの聖訓は日蓮大聖人が五十九歳の弘安三年(一二八〇)にお書きになられた『盂蘭盆御書』という御書に書かれている一節です。
 今月の聖訓は「一乗(法華経)の羽を頼りに寂光の空を飛ぶこともできるであろう」とのお言葉です。「乗」とは乗り物の意味で、仏教では仏の教えは私たちを迷いや憂いのある世界(此岸)から、煩悩から解放された悟りの世界(彼岸)へと乗せて運んでくれる乗り物であるという考え方から仏の教えのことを「乗」といいます。つまり「一乗」は法華経であり、今私たちが生きているこの時代においては唯一、法華経を信じて題目である南無妙法蓮華経をお唱えすることによって私たちの成仏はかなうということです。
 八月の聖訓も『盂蘭盆御書』から「我が身は藤のごとくなれども、法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなん(我が身はありふれた藤のようであっても、松のように立派な法華経の教えに頼り懸かれば、妙覚の山に登り仏に成ることもできるであろう)」とのお言葉でしたが今月の聖訓はこの後に続きます。
 『盂蘭盆御書』には法華経の中でも有名な一節である「願くはこの功徳を以て普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」という経文が引かれており、私たち自身はたいした力を持っていなくとも、誰もが成仏を約束される尊い法華経の教えにあずかり信行することによって自他共に、そしてご先祖様や末代に至ってもその功徳は廻り巡り廻向されることが示されています。
(寿)

2023.10 日蓮一人 南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経等と声もおしまず唱うるなりー報恩抄ー
 今月のカレンダーの聖訓は日蓮大聖人が三十八歳の正元元(一二五九)年にお書きになられた『守護国家論』という御書に書かれている一節です。
 この御書では、大地震などの天変地異や疫病の流行などが多発していた当時の苦しい状況のなかで仏の真実の教え(実教)である法華経によってのみ、世の中の人々が救済され厄災も止むと主張されています。これは日蓮大聖人の御書の中でも有名な『立正安国論』を著述される前年に書かれ、正しい仏法を立てて国を安穏にするという「立正安国」の理念に通ずるものです。
 御書中では浄土宗の開祖である法然が書いた『選択本願念仏集』を批判され、仏の教えのなかにも権教(仮の教え・方便)と実教(真実の教え)が存在すること、それらの教えの説かれた順序や時代によって人々に利益を与えられる教えについて説明がされており、一貫して末法(今の時代)においては法然が主張する浄土教信仰によるのではなく法華経による信仰が必要であることを説かれています。
 今月の聖訓は「法華経を信仰して修行する者のいるところを浄土と思いなさい」とのお言葉です。法然が弘めた浄土教では西方極楽浄土の存在が説かれ、辛いことばかりで穢れているこの現実(娑婆世界)から逃れて死後に阿弥陀如来のいる極楽に生まれ変わる(往生)ことが目的とされます。この教えの中では私たちが生きるこの現実世界は穢れた穢土として否定されるものでしかありません。
 しかし一切経(全てのお経)を研究された日蓮大聖人は、法華経には仏様は常にこの娑婆世界におられて私たちを導いてくれることが説かれているのに、この娑婆世界を捨ててどうして他の処に浄土を求める必要があるのかと主張されます。
 今の時代に生きる私たちにとって成仏の為の教えは法華経以外には有り得ず、南無妙法蓮華経のお題目を唱え修行することによって今私たちが暮らす現実世界を「浄土」にしていくことが必要なのです。
(寿)

2023.9 法華経修行の者の所住の処を浄土と思うべしー守護国家論ー
 今月のカレンダーの聖訓は日蓮大聖人が三十八歳の正元元(一二五九)年にお書きになられた『守護国家論』という御書に書かれている一節です。
 この御書では、大地震などの天変地異や疫病の流行などが多発していた当時の苦しい状況のなかで仏の真実の教え(実教)である法華経によってのみ、世の中の人々が救済され厄災も止むと主張されています。これは日蓮大聖人の御書の中でも有名な『立正安国論』を著述される前年に書かれ、正しい仏法を立てて国を安穏にするという「立正安国」の理念に通ずるものです。
 御書中では浄土宗の開祖である法然が書いた『選択本願念仏集』を批判され、仏の教えのなかにも権教(仮の教え・方便)と実教(真実の教え)が存在すること、それらの教えの説かれた順序や時代によって人々に利益を与えられる教えについて説明がされており、一貫して末法(今の時代)においては法然が主張する浄土教信仰によるのではなく法華経による信仰が必要であることを説かれています。
 今月の聖訓は「法華経を信仰して修行する者のいるところを浄土と思いなさい」とのお言葉です。法然が弘めた浄土教では西方極楽浄土の存在が説かれ、辛いことばかりで穢れているこの現実(娑婆世界)から逃れて死後に阿弥陀如来のいる極楽に生まれ変わる(往生)ことが目的とされます。この教えの中では私たちが生きるこの現実世界は穢れた穢土として否定されるものでしかありません。
 しかし一切経(全てのお経)を研究された日蓮大聖人は、法華経には仏様は常にこの娑婆世界におられて私たちを導いてくれることが説かれているのに、この娑婆世界を捨ててどうして他の処に浄土を求める必要があるのかと主張されます。
 今の時代に生きる私たちにとって成仏の為の教えは法華経以外には有り得ず、南無妙法蓮華経のお題目を唱え修行することによって今私たちが暮らす現実世界を「浄土」にしていくことが必要なのです。
(寿)

2023.8 我が身は藤のごとくなれども法華経の松にかかりて妙覚の山にものぼりなんー『盂蘭盆御書』ー
 今月のカレンダーの聖訓は日蓮大聖人が五十九歳の弘安三(一二八〇)年にお書きになられた『盂蘭盆御書』という御書に書かれている一節です。 この御書はその書名の通り盂蘭盆・施餓鬼会の由来について書かれています。
 その昔、釈尊の弟子に目連尊者という方がいて弟子の中で神通(修行によって身についた不思議な能力)第一といわれていました。目連尊者はある時、自分の母が死後に生前の欲深く物惜しみをする行いによって餓鬼道(決して満たされない苦しみの世界)に堕ちてしまっていることを知ります。目連尊者は神通力をもって母を救おうとしますが自分の力ではどうしようもなく師である釈尊に助けを求めたところ「七月十五日に各地から聖僧を集めて百味の飲食を供養して布施を行い、法会を修しなさい」と教えられ、その通りにしたところ母を餓鬼道の苦しみから救うことが出来たとのことです。
 今月の聖訓は「我が身はありふれた藤のようであっても、松のように立派な法華経の教えに頼り懸かれば、妙覚の山に登り仏に成ることもできるであろう」とのお言葉です。
 説話の中に登場する目連尊者は釈尊の十大弟子にも数えられ自身も長年の修行をつんで神通力までそなえた立派な聖者です。その目連尊者でさえも自らの神通力では母を救うことが出来ませんでした。それは目連尊者が小乗の教え(限られたものしか救われない)にとらわれていた為であり、師である釈尊の智慧に従い、方便である法華経以外の教えを捨てて南無妙法蓮華経と唱えたことによって母を救い自らの成仏もなすことが出来たのです。
 私たちは目連尊者のように立派な聖者ではないかもしれませんが聖訓に示されているように、自身はありふれた存在であったとしても藤が松をたよりにしてツタをのばし登っていくように仏の教えの中で最も優れている法華経をたよりとすることによって自身の成仏のみならず他の者の成仏さえも為すことができるのです。
(寿)

2023.7 釈迦佛は霊山より御手をのべて御頂をなでさせ給うらん―『松野殿女房御返事』―
 今月のカレンダーの聖訓は日蓮大聖人が五十八歳の弘安二(一二七九)年にお書きになられた『松野殿女房御返事』という御書に書かれている一節です。
 「松野殿」の一族は日蓮大聖人の有力な外護者であり、当時駿河国松野郷の領主であった松野六郎左衛門入道とその息子である松野六郎左衛門尉の二人が「松野殿」と称されており御書名にある「松野殿女房」は息子の方の妻であるといわれています。
 聖訓は「お釈迦様は霊鷲山より御手をのばされて頭を撫でて(褒めて)くださるだろう」とのお言葉です。
 この『松野殿女房御返事』は身延山におられる日蓮大聖人に対して「松野殿女房」が麦・芋・瓜などの品々を供養されたことに対するお礼として書かれています。身延山の厳しい環境にあって法華経修行の者に対して供養して頂けることは思いもよらない程有り難いことであり、善神である梵天、帝釈天、そして本仏釈尊もその善行をお認めになるだろうと感謝を綴られています。
 御書の中で日蓮大聖人は朝夕にわたって法華経を読誦し仏道修行が実践されている今の身延山はお釈迦様が法華経を説法されたインドの霊鷲山や中国で法華経をよく修行された天台大師がおられた天台山にも等しい聖地であるとおっしゃられています。
 法華経には「当知是処 即是道場」(当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり)と説かれており、日蓮大聖人のお示しの通り身延山のみならず私たちが法華経を信仰してお題目を唱える場所はその場所がそのまま修行の道場であり、法華信仰の聖地と等しい会場となるのです。
(寿)

2023.6 法華経を持つ男女のすがたより他には宝塔なきなり―『阿仏房御書』―
 この文言は日蓮大聖人が五十五歳の建治二(一二七六)年にお書きになられた『阿仏房御書』という御書に書かれている一節です。
 日蓮大聖人が佐渡御配流中に教化された信者に阿仏房という人物がいます。阿仏房は佐渡に在島していた念仏の信仰者でしたが日蓮大聖人の教化をうけてからは熱心な法華信者となりました。日蓮大聖人が後年に身延に入られてからも遠い佐渡から身延に訪問するなど、妻である千日尼と共に信仰を深めています。
 文言には、「法華経を信仰する男女の姿は尊くすばらしいものであり、その姿がそのまま宝塔である」とのお示しです。
 この「阿仏房御書」は法華経の見宝塔品第一一に説かれている宝塔とは何を表しているのかという阿仏房からの質問に対する返書として書かれています。日蓮大聖人は天台大師の『法華文句』を引いて宝塔とは法華経の法門においても重要なものであるとされ、結論として「法華経の題目宝塔なり。宝塔又南無妙法蓮華経也。」と示されています。しかしこの末法という時代においては、ひとまず難解な法門の理解よりも法華経を信仰してお題目を唱え修行を積むことが大事なことであるとされています。
 また日蓮大聖人は今月の聖訓の言葉を皮切りに、身分の違いや貧富の差にかかわらず、南無妙法蓮華経と唱える人はその身がそのまま宝塔であり、法華経が真実であると証明する多宝如来にも等しいと説示され、熱心に信仰する阿仏房の姿を「阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此より外の才覚無益なり。」と鼓舞されています。 ※本年は日蓮大聖人の佐渡御配流赦免(罪を許されること)、七五〇年の節目にあたります。
 法華宗宗務院では九月十三日~十五日の日程にて佐渡島団体参拝を計画しております。
 詳細については無上道誌において追って掲載いたします。
(寿)

2023.5 ただ法華経ばかりこそ女人成佛 悲母の恩を報ずる 実の報恩経にては候え―千日尼御前御返事―
ただ法華経ばかりこそ女人成佛 悲母の恩を報ずる 実の報恩経にては候え―千日尼御前御返事―
 この文言は日蓮大聖人が五十七歳の弘安元(一二七八)年にお書きになられた『千日尼御前御返事』という御書に書かれている一節です。
 日蓮大聖人が佐渡御配流中に教化された信者に阿仏房という人物がいます。阿仏房は元は上皇に随従した北面の武士であり、念仏の信仰者でしたが日蓮大聖人の教化をうけてからは熱心な法華信者となりました。御書名にある千日尼とはこの阿仏房の妻のことで、日蓮大聖人が佐渡におられた約千日間、夫と共に日蓮大聖人を外護し、供養されたことに因んで授けられたといわれています。
 文言には、「ただ法華経だけが女性の成仏を説き、母の恩に報ずることのできる真実の報恩の教えである」とのお示しです。
 日蓮大聖人はこの『千日尼御前御返事』の中で女性の成仏について説かれており、母の恩に報いる為には女性が成仏できることが説かれている法華経の題目を唱えることが必要であると主張されています。
 また中国の天台大師の法華経の解釈書である『法華文句』中にある、「法華経以外の経典では、男の成仏については述べられているが、女の成仏については記していない。法華経では男女ともに成仏が説かれている」という文を引用された上で法華経の「提婆達多品第十二」にある竜女が法華経の経力によって即身成仏する場面をあげて法華経は成仏について女性を手本として挙げており、すべての女性は法華経以外の経典で成仏できないといわれても法華経によって女性の成仏が許されるのであれば、少しも苦しく思うことはないと示されています。
(寿)

2023.4 釈迦佛と法華経の文字とは かわれども心は一つなり―四条金吾殿御返事―
 釈迦佛と法華経の文字とは かわれども心は一つなり―四条金吾殿御返事―
 この文言は日蓮大聖人が五十一歳の文永九(一二七二)年に佐渡一谷で書かれました『四条金吾殿御返事』の一節です。
 四条金吾殿は大聖人が斬首されそうになった龍ノ口法難の際に大聖人の側にいて、殉死をも辞さなかったほどの熱心な信者でした。このお手紙が書かれたときは四条殿の主君が二月騒動という執権時宗と異母弟北条時輔らとの間に起こった北条一門の内紛に巻き込まれ、ようやく落ち着いた頃とされています。主君に仕え忠義の人であった四条殿を褒め称えると同時に、『法華経』を熱心に信仰する人としても褒め称えた内容となっています。
 大聖人は『法華経』は釈尊の教えの中で最も優れたものであると同時に、釈尊の言葉を示したものであるので、『法華経』を拝むということは釈尊、そして釈尊の全ての教えを拝むことと同じであるとお示しくださっています。
 世の中にたくさんの仏教宗派がありますが、中には釈尊を本尊とする宗派もございます。その中で私たち法華宗はインドにお生まれになった釈尊ではなく、久遠の昔の釈尊が悟りを開かれるときにお唱えになった
 本門八品上行所伝本因下種之南無妙法蓮華経
を御本尊としております。
 お題目をお唱えすることは『法華経』全てをお読みすること、さらには釈尊、釈尊の全ての教えを全てお読みすること以上の功徳があると大聖人は私たちに教えてくださっています。
 今月八日は釈尊のお誕生日、釈尊降誕会です。降誕とは、単なる誕生ではなく、私たちの為に釈尊が仏様の世界から、再度私たちの目の前に出てきてくださった事を意味します。
 仏様の慈悲の心を感じ、感謝のお題目をお唱えすること、それこそが最大の修行であり、最大の功徳を戴ける術になるのです。
 家族皆様で、感謝のお題目を捧げて頂きますようお願い致します。
(寿)

2023.3 衆生の心けがるれば土もけがれ 心清ければ土も清し―一生成佛鈔―
 衆生の心けがるれば土もけがれ 心清ければ土も清し―一生成佛鈔―
 この文言は日蓮大聖人が三十四歳の弘安元(一二五五)年にお書きになられた『一生成仏鈔』という御書に書かれている一節です。
 この御書は日蓮大聖人の信者であった富木常忍に宛てられたものです。富木氏は最も初期からの信者の一人とされており、識字力や教学的な素養も高く宛てられた書状も多いことから日蓮大聖人からの信頼も厚かったことが伺われます。
 文言には心が汚れていればその人のいる場所も汚れ、心が清らかであればその人のいる場所も清らかとなる、浄土も穢土も隔たっているのではなく、私たちの心の善悪によるのであるとのお示しです。日蓮大聖人は「浄土」や「穢土」という場所や環境よりも自らの心の有り様が重要であるとおっしゃっています。
 仏教の教えの中に「十界互具」という考え方があります。十界とは全ての存在や生存領域を十種類に分けて理解する考え方で「仏界・菩薩界・縁覚界・声聞界・天界・人界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界」に分けられます。私たち人間の生存領域は「人界」で動物などは「畜生界」にあたりますが、この十界を互いに具えるということですから端(はた)から見える姿とは別に各々の心(存在)のなかにもこの十界が存在することになります。
 同じ人間の姿をしていてもまるで仏様のような慈しみの心をもって周囲に接することができる人がいる一方で、いつも機嫌が悪かったり欲望に捕らわれて自分も他人も苦しめてしまうような人もいるのは、それぞれの心のなかの仏界、修羅界、地獄界がそれぞれ強く顕れているからかもしれません。
 私たちの心はとても移ろいやすく、周りの環境にも左右されやすいものです。自分達の心を注意深く見つめ直して自らの行いを改善していくことで自分達のいる場所も浄土とすることが出来るのです。

(寿)

2023.2 厄の年災難を払わん秘法には法華経に過ぎず―太田左衛門尉御返事―
 厄の年災難を払わん秘法には法華経に過ぎず―太田左衛門尉御返事―
 この文言は日蓮聖人が五十七歳の弘安元(一二七八)年にお書きになられた『太田左衛門尉御返事』という御書に書かれている一節です。太田左衛門尉とは日蓮大聖人の信者であった太田乗明のことで、役人をしている有力者でしたがその役職名から太田左衛門尉、太田金吾とも呼ばれていました。
 乗明は自らが厄年にあたり心身に不調をきたしていることを不安に思い日蓮大聖人に相談しています。日蓮大聖人はその悩みに対して法華経に説かれている経文「此経則為閻浮提人病之良薬。若人有病得聞是経病即消滅(この経はこの世界の人々の為の良薬である。もし病人がこの経を聞けば病は消滅する)」「諸余怨敵皆悉摧滅(諸々の怨敵を全て摧き滅する)」等を引用されながら、「法華経の教えは心身の病を癒やす大良薬である」と示され、厄にあたっても法華経を強く信仰していれば身に来たる厄もはね除けることができると仰せです。
 そもそも厄年とは、大きな災難や不幸が降りかかるおそれの多いとされる年齢のことで、平安時代から続く考え方です。厄年の年齢は男女で違いますが、厄年の前年を前厄、翌年を後厄とする三年間は共通です。厄年の年齢は右の通りです・
 男性 二十五歳・四十二歳・六十一歳 (数え年)
 女性 十九歳・三十三歳・三十七歳・六十一歳 (数え年)
中でも男性の四十二歳、女性の三十三歳は、最も注意すべき大厄とされています。
 今月は節分にあたり各寺院教会で節分会で厄除けの祈願をされるところも多いのではないでしょうか。厄にあたられる方はこの機会に菩提寺に参拝し法華経による厄除けをお勧めいたします。また節分でなくとも厄除けは出来ますので菩提寺のご住職にぜひご相談ください。
(寿)

2023.1 我日本の柱とならん 我日本の眼目とならん 我日本の大船とならん―開目抄―
 我日本の柱とならん 我日本の眼目とならん 我日本の大船とならん―開目抄―
 この文言は日蓮大聖人が五十一歳の文永九(一二七二)年、佐渡でお書きになられた『開目抄』という御書に書かれている一節です。前年の龍ノ口法難の後、佐渡へと流罪となった大聖人は、塚原三昧堂という所に住まわれました。三昧堂は屋根も壁も崩れており、室内にいても雪が降り積もるほどの過酷な環境であったと言われています。
 命の危険を感じながらも大聖人は、「何故『法華経』の行者である私が難に遭うのか。共に『法華経』を信じ、お題目をお唱えしている弟子・檀越が迫害を受け、教えを捨てる者も出てきてしまうのは何故か。自分は本当の『法華経』の行者ではないのではないか。」
という問いに立ち向かわれました。そして、その答えとして、『法華経』の行者であるから難に遭うのだ。正しいことをしているからこそ、それを邪魔する者が現れるのだという結論に至り、やはり自分は『法華経』の行者であるとの自覚を強くされたのです。そのため、古来『開目抄』を「人開顕(正しい教えを伝える人を明らかにした)」の書と呼んでおります。
 この一節はすべて「ならん」と書かれています。今の言葉遣いで「ならん」とは否定を意味しますが、古語で「ならん」とは、この場合「なろう」という意味になります。
 日本を支える柱となろう、日本を正しい方へと導く目となろう、日本の全ての人を乗せて霊山浄土へと向かう船となろう。
 そこには、大聖人の強い意志が示されています。命を落としかねない状況の中で、自分以外の全ての人々のことを想い、願を立てられたのです。これこそ菩薩行であり、その決意と恩恵を私たちは今に戴いているのです。
 新年を迎え、新たな気持ちでお題目をお唱えすること、それこそ大聖人のお立てになられた願に感謝することに繋がります。皆でお題目をお唱えして、大聖人に感謝し、全ての人が安穏な一年となりますように、一日一日を大切に過ごして参りましょう。
(芹)

2022.12 法華経を信ずる人は冬の如し 冬は必ず春となる―妙一尼御前御消息―
 法華経を信ずる人は冬の如し 冬は必ず春となる―妙一尼御前御消息―
 この文言は日蓮大聖人が五十四歳の建治元年(一二七五)年五月に書かれました『妙一尼御前御消息』の一節です。
 妙一尼は、鎌倉の桟敷周辺に居住していたことから「さじきの尼」とも呼ばれています。桟敷とは、かつて源頼朝が由比ヶ浜を眺めるのに桟敷を敷いた故事に由来する地名です。今でも妙一尼が住んだあたりには祇園山展望台があり、鎌倉の町や海が一望できます。
 妙一尼がいつ頃から大聖人のご信者になられたのかは分かっていませんが、大聖人はじめ、多くの方が鎌倉で弾圧を受け、弟子やご信者の大勢が棄教する中で、大聖人を支え、佐渡流罪の際には自身の家来を一人送り、大聖人の生活を物心両面から支えたご信者です。
 弾圧を受けた方々は、厳しい冬を心身ともに感じていたことでしょう。妙一尼も弾圧を受けた一人かもしれません。その厳しい状況を経て、冬は必ず春となる、すなわち成仏を約束されているという大聖人のお言葉を戴いたことで、妙一尼はさらに信心を深めたことでしょう。
 昨今のコロナ禍、社会情勢の混乱や戦争を目の当たりにした今年、すべての人が「冬」のように気持ちが沈みがちな一年となってしまいました。その中で、『法華経』を信じる人は今は「冬」であっても必ず春が来るというお言葉、私たちにこの上ない安心を与えてくれます。と同時に、春を迎えるためには、
本門八品上行所伝本因下種の南無妙法蓮華経
をお唱えすることが欠かせません。私たちは一層の精進を誓い、信心を深めていかなければなりません。
 来年こそはよい年となるよう、立正安国、病魔退散、国土安穏、世界平和という「春」を皆が迎えられるよう、今年も残り少なくなりましたが、一日一日を大切に過ごしてまいりましょう。
(芹)

2022.11 法華経の文字は皆生身の佛なりー法蓮鈔ー
 法華経の文字は皆生身の佛なりー法蓮鈔ー
 この文言は日蓮大聖人が五十四歳の建治元(一二七五)年に書かれました『法蓮鈔』の一節です。法蓮とは、下総国(今の千葉県)にいた檀越で、曽谷教信氏のことです。 早くから大聖人の信者となり、出家して法蓮と名乗っておりました。その法蓮宛てのお手紙ですので、古くから『法蓮鈔』と称されております。
 このお手紙は、曽谷教信(法蓮)が、父の十三回忌を迎えた際に、父の臨終後、十三回忌に至るまで毎日『法華経』の自我偈を唱え続けたという功徳を褒め称え、父への孝行、法華経への信仰とその功徳について示しておられます。
 古来、私達は『法華経』の文字数を六万九千三百八十四字とし、「一一文文是真仏」と、『法華経』の一文字一文字が全て一体の仏様であると考えております。ですから、その『法華経』をお唱えし、書写することは、それだけたくさんの仏様を拝むこと、お姿を写す事になるのです。特に『法華経』の肝心である如来寿量品第十六の自我偈を唱えること、『法華経』のみならず、全てのお経の功徳を具えた本門八品のお題目をお唱えすることは、何物にも勝る修行であり、功徳があると、大聖人は説かれています。
 法蓮上人がなされたように、毎日手を合わせ、お経を唱え、お題目をお唱えすることとは、亡くなられた方を毎日想い、感謝する心があるからこそできることだと考えます。
 ある宗教学者が、「人は二度死ぬ。一度目は肉体的に、二度目はその人が忘れ去られたときに」と話されていました。私達法華宗徒は、二度目の死をご先祖様が迎えることがないようにしなければなりません。
 大聖人の教えを直接受けた法蓮上人がなされたように、私達も毎日欠かさず、感謝と回向のお題目をお唱えし続けてまいりましょう。

(芹)

2022.10 日蓮こいしくおわせば常に出づる日ゆうべにいづる月をおがませ給え―国府尼御前御書―
 日蓮こいしくおわせば常に出づる日ゆうべにいづる月をおがませ給え―国府尼御前御書―
 この文言は日蓮大聖人が五十四歳の建治元(一二七五)年に書かれました『国府尼御前御書』の一節です。国府尼とは、佐渡の国の国府近くに住んでいたとされる国府入道の妻で、阿佛房夫妻と共に、流罪中の大聖人を支えた篤信者として知られています。
 流罪が赦免となった後も、ご供養の品を旦那である国府入道に託し、身延まで届けてもらうなど、熱心なご信者さんであったと言われています。ご供養に対してお礼のお手紙の中の一節がこちらの文言です。
 法華経の行者である大聖人を供養する功徳、そして手を合わせお題目をお唱えする事の功徳をわかりやすく説いたお手紙として、古来日蓮門下では広く用いられてきました。
 現在もこのお手紙は残っていますが、縦30㌢ほどの紙七枚に亘る長いお手紙です。一行には十字ほどしかなく、大きく勢いのある筆致で、感謝のお気持ちが大きくあらわされていることが字からも想像できます。
 身延に来ることが出来なかった国府尼に対し、姿は見えないけれども心はここ身延にあって、同じ気持ちですよと優しく話しかけています。そして、自分を慕い、懐かしく思うのであれば、日月を拝みなさい。私も毎日拝んでいますから、その姿は日月に映っていることでしょう。離れていても会うことは出来ますよ。
と、教示されています。不謹慎ですが、まるで恋文のような内容ですね。このお手紙を頂いた国府尼の喜びは計り知れないものだったでしょう。
 今月、十三日は宗祖日蓮大聖人の七四一遠忌にあたります。大聖人の生身のお姿を、私達は見ることは出来ませんが、大聖人を想って手を合わせ、お題目をお唱えすることで、離れていても大聖人と同じこころ、同じ場所にいることができる、お会いすることが出来ると確信しております。皆で報恩感謝の心を持ち、お題目をお唱えしましょう。
(芹)

2022.9 天の三光に身をあたため 地の五穀に精神を養う―四恩鈔―
 天の三光に身をあたため 地の五穀に精神を養う―四恩鈔―
この文言は日蓮大聖人が四十一歳の弘長二(一二六二)年に書かれました『四恩鈔』の一節です。
この一節は私達が食事を戴く前にお唱えする「食偈」にも用いられているお言葉です。
長くなりますが、法華宗でお唱えしている「食偈」は以下の通りです。
  天の三光に身をあたため、地の五穀にたましいを養うこと、
  これひとえに本地如来(ほんじにょらい)の大慈大悲(だいじだいひ)なり。
  たとえ一滴の水も、一粒(いちりゅう)の米も、
  これ本仏(ほんぶつ)の身命(しんみょう)を捨てたもうところにあらざることなし。
  いま我、道業(どうごう)を成(じょう)ぜんがためにこの食を受く。
  かるがゆえに衷心(ちゅうしん)感謝して、もってこれを頂戴せん。
  是人舌根浄(ぜにんぜっこんじょう) 終不受悪味(じゅうふじゅあくみ)
  其有所食噉(ごうしょじきだん) 悉皆成甘露(しっかいじょうかんろ)
  本門八品上行所伝 本因下種の南無妙法蓮華経
 天の三光とは日蓮大聖人の御曼荼羅にも書かれている日天子・月天子・明星天子のことであり、太陽と月と星を神格化して信仰対象としたものとされています。いずれも『法華経』の行者を守護する神として、大聖人は深く尊崇されておられました。また、地の五穀とは、穀類の総称です。時代によって何を五穀とするかは様々ですが、一般的には、米・麦・黍(きび)・粟(あわ)・豆などを指します。
 最近の夏の日射しは厳しいものがありますが、冬などは日射しの暖かさに感謝した経験をお持ちの方も多いことでしょう。また、五穀は人の命を繋ぐ大切な食材です。おいしいご飯を戴くことで心も温かくなるものです。
 九月、実りの秋です。おいしい食べ物も多く出回ります。それらの命を戴いているのだということ、それは、言い換えれば私達は他の命に生かされているということになります。
 全てのものに対して、感謝の気持ちを持ちながら「食偈」をお唱えし、お題目をお唱えする日々をお過ごしいただきたいと思います。
(芹)

2022.8 釈尊は孝養の人を世尊となづけ給えり―曽谷殿御返事―
 釈尊は孝養の人を世尊となづけ給えり―曽谷殿御返事―
 この文言は日蓮大聖人が五十八歳の弘安二(一二七九)年に書かれました『曽谷殿御返事』の一節です。曽谷殿というのは大檀越(ルビ:だいだんのつ)である曽谷教信(ルビ:そやきょうしん)の息子、曽谷道崇(ルビ:そやどうそう)のことであるとされています。父譲りの篤信者であったとされ、身延におられた大聖人に何度もご供養の品を届けた人物であるといわれております。この『曽谷殿御返事』は、真蹟は残っておりませんが弘安二年八月十七日に書かれたものと言われており、冒頭に大聖人へ焼米(収穫前の未熟な米を煎ったもの。戦時食にも用いられており保存用でもあったとされる。)を供養された御礼として書かれたものです。当時の八月ですから、まだ新米が収穫できるには時間があり、いわば最もお米の在庫が少ないときと言えるでしょう。そのような時にいち早く焼米を作り、供養された曽谷殿に対して、大聖人は「お米というものは、お金では決して買えない人の命を繋ぐものであり、とても尊いものである」と述べられ、感謝の気持ちを表しておられます。
 そもそも「世尊」とは、仏に対しての称号である十号の一つです。仏とは全ての功徳を兼ね備え、全ての人々を救い、世に尊重される存在であるために「世尊」と称するというのが元の意味です。私達が釈尊と称するのは釈迦牟尼世尊の略称なのです。
 供養される人が「世尊」であるならば、供養する人もまた「世尊」である。先にお米とは命を繋ぐ尊いものであるという話を出しましたが、お米が無ければ命は繋がれず、命無ければお米の供養は意味を持ちません。両方揃って尊いという大聖人のお考えが、この供養する人も「世尊」という話につながるのでしょう。
 大聖人のご信者に限らず、現代に生きる私達も仏となること、成仏することを願い、日々お題目をお唱えしているわけですが、大聖人から「あなたも世尊、つまり仏なんですよ」とお示しいただいた曽谷殿の喜びは想像できないくらい大きなものであったでしょう。
 命を繋ぐと言うこと、それを支えてくれるのは共に生きる家族、社会、この世の全てがあってこそです。と同時にこれまで繋いでくださったご先祖様あってのものです。
 全国各地でお盆を迎え、ご先祖様がお戻りになられる今月、あらためて命がつながっていることに感謝しながらお題目をお唱えする日々を過ごしてまいりましょう。
(芹)

2022.7 一身凡夫にて候えども口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使に似たり―四条金吾殿御返事―
 一身凡夫にて候えども口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使に似たり―四条金吾殿御返事―
 この文言は日蓮大聖人が五十八歳の弘安二(一二七九)年に書かれました『四条金吾殿御返事』の一節です。四条金吾殿は大聖人の大檀越として有名で、お手紙を最も多く頂いた信者の一人です。
 信仰上の問題で、主君から謹慎処分などを受けていた四条殿でしたが、その主君が病にかかったときに、医術に長けていた四条殿は一心に加療に務め、主君の病が完治したことで許されたことがこのお手紙に記されています。
 この一節は、信心を曲げず、信用を回復した四条殿に、それは法華経信仰の結果であると激励した上で、大聖人御自身が滅後末法の法華経の行者、如来の使いであることを示しておられます。その大聖人を信頼し、様々な供養をする四条殿もまた如来の使いであり、成仏は間違いないと断言されておられます。
 大聖人のお手紙を拝見すると、ご自身を身分の低い者や、劣ったものにたとえる箇所が多く見受けられます。それは、「自分が特別なのではない。自分も、この手紙を受け取った人、後の世に生きる人と違いは無い。だからこそ、自分がお題目をお唱えして、成仏するように、あなたもあなたも、万物が成仏するのだ。」という強い信念から書かれたからでしょう。この一節にもある「一身凡夫」とは私達自身のことでもあります。そんな私達も口にお題目を唱えれば、如来の使いのようなものになり、成仏できる。自分もそうなんだから、皆さんもそうなんですよ。という大聖人の温かいお示しです。
 今月は東京などではお盆の時期です。今皆さんがお題目をお唱えし、『法華経』にご縁を結んでおられるのは、大聖人あって、先師先哲、ご先祖様あってのことです。そのご先祖様が霊山浄土より戻られるお盆、今一度感謝のお題目をお唱えするようにいたしましょう。
(芹)

2022.6 毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は唯佛与佛乃能究尽なるべしー法蓮鈔ー
 毎朝読誦せらるる自我偈の功徳は唯佛与佛乃能究尽なるべしー法蓮鈔ー
 この文言は日蓮大聖人が五十四歳の建治元(一二七五)年に書かれました『法蓮鈔』の一節です。下総国(現在の千葉県)八幡庄曽谷郷を所領としていた大檀越の曽谷教信(法蓮上人と称されておりました)に宛てたものと言われております。
 この一節は、曽谷氏が父の十三回忌までの毎日、自我偈を読誦していたことを褒めて、大聖人が記したものです。
 父を思い、毎日毎朝自我偈をお読みする、その功徳は、ただ仏と仏でなければ、理解し、究め尽くすことが出来ないほど、計り知れないほどの大きな功徳なのですよ。と、曽谷氏の積まれた功徳を褒めておられます。
 お寺での毎日のお勤めや様々な仏事において、自我偈は唱えられています。『法華経』が最も大切で、最も優れた経典であることを示された「如来寿量品第十六」、その中でも自我偈は『法華経』の魂であると大聖人は述べておられます。
 私も子供の頃に『法華経』の一言一句ずつ、祖父や父が唱えた後を追いかけながら、お唱えさせていただき、最初に覚えたのが自我偈でした。最初は意味も分からず、ただ真似をすれば良いや程度の考えでしたが、次第に覚えてきて、一緒に唱えられるようになったときは嬉しかったことを覚えています。
 唯佛与佛乃能究尽とは、仏しか理解し得ない、極め尽くせないという意味です。それを私達は大聖人からお示しいただき、ご先祖様や家族、様々なご縁で今お唱えする事が出来ます。他の経典とは比較できないほどの功徳を積むことが出来るわけです。皆様のご家庭でもお経本を見ながら、ゆっくりでも大丈夫です。家族が一緒にお唱え出来るようにしていただきたいと思います。と同時にその自我偈の功徳をも包み込むほど大きな功徳がお題目にはあります。
 今月十九日は父の日です。父から子へ、そして孫へと自我偈、お題目の功徳を戴けますよう、日々感謝のお題目をお唱えしてまいりましょう。
(芹)

2022.5 藤は松にかかりて千尋をよじ 鶴は羽を恃みて万里をかける―盂蘭盆御書―
  藤は松にかかりて千尋をよじ 鶴は羽を恃みて万里をかける―盂蘭盆御書―
 この文言は日蓮大聖人が五十九歳の弘安三(一二八〇)年に書かれました『盂蘭盆御書』の一節です。異称に『与治部房祖母書』ともいい、中老僧の一人、日位上人の祖母に宛てたものと言われております。
 本書の内容としては、日位上人の祖母から、盂蘭盆に併せて様々な供物を頂いた事への御礼に始まり、盂蘭盆の起源や意義について質問に答えたものとなっています。
 そもそも盂蘭盆とは、釈尊の十大弟子の一人、目連尊者が、自分のために餓鬼界に行ってしまった母親を救う為に、釈尊のアドバイスに従い、七月十五日に修行僧等に対して供養を行ったという説話に由来します。この時、目連尊者は『法華経』を信じ、唱えたことで自分自身だけでなく、父母、子孫、有縁無縁の人をも救うことが出来た、と大聖人は示しておられます。
 最近「どうせ自分なんか」とか「自分なんて大したことない」と否定的に考えてしまう人も少なくありません。確かに一個人の力ではどうにもならないことは多々あります。本年二月に勃発したロシア連邦によるウクライナへの軍事行動にしても「日本に生きる私達に出来ることなんて何もない」と考えてしまう人も居られることでしょう。ですが、今この『無上道』をお読みの皆様は『法華経』を戴いています。たとえ、一人一人は小さな力、未熟であっても、松に沿って藤の蔓が伸び、大木よりも大きく育つように、小さなハエが馬の尾にしがみつき、遠くまで駆けることが出来るように、私達は『法華経』の力で自分以上の力を発揮することが出来ます。ということは、人一倍平和を願い、家族の安寧を願うことができる、そしてその願いは他の誰よりも強いもの、確実なものなのです。そういうことを大聖人はわかりやすく、たとえ話を用いながら私達に示してくださっているのです。
 五月、緑鮮やかな素晴らしい季節です。四季を感じられるのも、平和あってのものでしょう。今一度『法華経』の有り難さ、お題目の有り難さを噛みしめ、毎日、回向と祈願のお題目をお唱えすることを心がけて参りましょう。
(芹)

2022.4 教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候いけるぞー崇峻天皇御書ー
   教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候いけるぞー崇峻天皇御書ー
 この文言は日蓮大聖人が四十四歳の文永二(一二六五)年に書かれました『聖愚問答鈔』の一節です。文永二年といえば、前年の小松原法難、さらには大彗星の出現と、大聖人の身にも世間にも混乱と苦難が生じている最中でありました。と同時に、大聖人はこのころ千葉に居り、上総藻原の観音堂で当地の領主、小早川内記氏を教化なされました。後の大本山鷲山寺様創立につながる出来事があった年ともされています。
 この御書は、宛先も日付もなく、直筆も現存していませんが、人として生まれて四苦八苦、すなわち生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五盛陰苦という苦しみから逃れられないと歎く愚人に対して、仏教の教え、とりわけ『法華経』の素晴らしさを智者が説くという内容から、『聖愚問答鈔』と呼ばれるようになったと言われております。
 『法華経』に説かれるたとえ話の中に「良医治子の譬え」というものがあります。如来寿量品第十六に説かれるものであり、釈尊を良医(父)に譬え、私達衆生を病人(子供)に譬えたものであり、その時に用いられる薬が本門八品のお題目であると大聖人は解説されました。
 昨今のコロナ禍は、だれしもが病人になり得るほどの猛威を振るいました。今も尚、世界各地で病に戦々恐々としております。確かにこの病気は肉体的にも大きな苦痛を伴い、後遺症の心配、ワクチンによる副作用など、心配は尽きません。それに加え、精神的にもこの病気は私達を苦しめております。経済面のみならず、人と人との距離を遠ざけ、供養さえも簡略化させてしまい、人の心も蝕まれてしまいました。感染していなくても心への感染は病気よりも多くの人を苦しめております。
四苦八苦という苦しみはいつの時代にも人々の中にあります。その苦しみに対して、私達は有難いことに本門八品のお題目という良薬を口にすることができます。その薬を届けてくださったのは、日蓮大聖人であり、その教えを今に伝えてくださったご先祖様です。
 今月は春のお彼岸、ご先祖様に感謝すると同時に、コロナ禍でなかなか会えない家族、友人、ご縁の方を想い、手を合わせる日々をお過ごしいただきたいと思います。
(芹)

2022.3 佛を良医と号し法を良薬に譬え衆生を病人に譬うー聖愚問答鈔 下ー
  佛を良医と号し法を良薬に譬え衆生を病人に譬うー聖愚問答鈔 下ー
 この文言は日蓮大聖人が五十六歳の建治三(一二七七)年に書かれました『崇峻天皇御書』の一節です。大聖人の法難の中でも最も有名な龍ノ口法難の際に、刑場まで馬の手綱を持ち、決死の覚悟で同行してくれた四条金吾に宛てたお手紙で、四条氏に対して、心からの感謝の言葉にあふれています。と同時に、このお手紙が書かれた頃、四条氏は主君の江馬氏から謹慎処分と大聖人への信仰を棄てるよう要求されていました。そのため、大聖人は崇峻天皇の物語を引きつつ、「口は災いの元」「言動に気をつけなさい」と、教示されています。崇峻天皇とは推古天皇の異母弟、聖徳太子のおじにあたる天皇です。崇峻天皇は当時の実力者蘇我馬子を嫌っており、あるとき献上されたイノシシを刀で刺しながら、「にくらしい奴もこのようにできたら」と口にしてしまい、それが馬子の耳に入り、暗殺されてしまったという天皇です。
 今日、何気ない言動が記事になったり、「炎上」という表現で問題になったりすることを見聞きされる方も多いのではないでしょうか。「そんなつもりではなかったのに」と歎いても「覆水盆に返らず」の言葉通り、いつまでも非難されたり、それによって不利益を被るケースは後を絶ちません。
 大聖人が四条氏を心配してこのお手紙を書かれたように、いつの時代でも言動は身を滅ぼしかねないものです。ですが、言動無しに私達は生きていくことはできません。ではどうすれば良いか。その答えがこの一節なのではないでしょうか。
お釈迦様がこの世にお生まれになり、教えを説かれた目的は人として正しい振る舞いとは何か、を教えることにあったのですよ。という大聖人のお言葉、その正しい振る舞いとは、日々感謝の心を持ち、手を合わせ、お題目をお唱えすることに他なりません。
 今月八日はお釈迦様の降誕会です。改めてお釈迦様がお説きくださった『法華経』の有り難さ、その教えを末法の今に伝えてくださった大聖人への感謝の心を持ち、お題目をお唱えしつつ、人としての正しい振る舞いについて考え、実行する日々をおくりたいものです。
(芹)

2022.2 諸難ありとも疑う心なくば自然に佛界にいたるべしー開目抄ー
  諸難ありとも疑う心なくば自然に佛界にいたるべしー開目抄ー
 この文言は日蓮大聖人が五十一歳の文永九(一二七二)年、『開目抄』という御書に書かれている一節です。この御書が書かれたのは佐渡の真冬、雪が堂内にも降り積もるほど、老朽化していた塚原三昧堂においてです。極寒の中、命の危険も感じながら執筆された、まさに命がけのお手紙です。
 古来、『開目抄』は人開顕の書と言われております。すなわち、大聖人自らが、法華経の行者であることを、様々な角度から自問自答する中で、自らの疑問を解き明かし、今ここにいるのはお題目のおかげ、法華経のおかげであると示されたものがこの『開目抄』なのです。
 人は困難や災難に遭遇すると「なんで自分だけこんな目に・・・」と考えることがあります。大聖人も「『法華経』弘通に生きているのに、弟子が死に、迫害され、自らも龍ノ口で首を切られそうになった・・・何故なのか」と考えられました。そして、上記の一節のように、難があるのは、正しい教えを信じているから、それを邪魔する存在が必ずいる。その邪魔に惑わされることなく、疑う心なく信仰すれば、必ず佛界すなわち霊山浄土に行くことができる。と結論づけられました。
 昨今のコロナに限らず、私たちの生活は常になんらかの難を意識しながらのものとなっております。さりながら、毎日の唱題、南無妙法蓮華経をお唱えする事、何より信仰を保ち続けるという強い気持ちを持つことで、難を難と感じず、感謝の気持ちを以て生活できると確信しております。
 今月は、私たちに『法華経』の大切さ、有難さをお示しくださった日蓮大聖人がお生まれになった月です。疑う心なく、お題目をお唱えする毎日にしてまいりましょう。
(芹)

2022.1 正月の一日は日のはじめ月の始め としのはじめ春の始め―重須殿女房御返事―
  正月の一日は日のはじめ月の始め としのはじめ春の始め―重須殿女房御返事―
 この文言は日蓮大聖人が六十歳の弘安四(一二八一)年、『重須殿女房御返事』という御書に書かれている一節です。この御書は大聖人のご信者であった南条時光氏の姉、もしくは妹と思われる人物で、駿河国富士郡重須(現在の静岡県富士市)に居住していた、石河新兵衛入道の妻宛に書かれたものと言われております。お正月の贈り物に対して、大聖人が正月とは、全てのはじまりであることを示しつつ、共に新春を慶ばれていることがわかります。
 何歳になっても正月の晴れ晴れしい気持ちは変わりません。昨年あった、良いことも、悪いことも、全て切り替えて、新しい気持ちで一年を始める喜ばしさは、古今東西変わらないものでしょう。特に近年のコロナ禍を受けて、「今年こそ、平穏無事な一年となりますように」という願いは私のみならず、皆様に共通のものではないでしょうか。
 この一節が書かれた『重須殿女房御返事』は、
 法華経を信じる人には、幸いが世界中から訪れるでしょう。それに対し、法華経を敵とする人の国には体に黒い影が寄り添うように、災いが来て、付きまとうでしょう。法華経を信じる人は、香りの良い栴檀という香木にさらに香りを増すように、素晴らしい功徳を戴けるでしょう。」 という言葉で締めくくられています。
 私達法華宗徒は、幸いにも『法華経』を戴いています。さらに毎日の唱題、南無妙法蓮華経をお唱えする事によって、天災・人災・疫病といった災いが治まり、平穏無事という幸せを戴くことが出来るのだという大聖人のお諭しです。
 新年を迎え、気持ちも新たにお題目、南無妙法蓮華経をお唱えし続ける毎日を過ごすという決意と共に、良い一年となるよう、皆でして参りましょう。
(芹)

2021.12 一生空しく過ごして 万歳悔ゆることなかれ―富木殿御書―
  一生空しく過ごして 万歳悔ゆることなかれ―富木殿御書―
 この文言は日蓮大聖人が五十六歳の建治三(一二七七)年にお書きになられたと言われている『富木殿御書』に書かれている一節です。富木殿は日蓮大聖人の最初期からの信者であり多くのお手紙を日蓮大聖人から送られています。
 今月のお言葉は「一生を空(むな)しく過ごしてずっと後悔するようなことにならぬようにしなさい」という門下に対する戒(いまし)めのお言葉です。
 この御書の中では「謗法(ほうぼう)」に対する罰(ばつ)がいかに大きく恐ろしいものであるかということが、『法華経』の内容を引用して説かれています。例えば『法華経』の「譬(ひ)喩品(ゆほん)第三」には「命を終えたあとに地獄に堕(お)ちて永(なが)い時間苦しむことになってしまう」とあり「常(じょう)不経(ふきょう)菩薩品(ぼさっぽん)第二十」には「千劫(もの凄く永い時間)にわたってもっとも恐ろしい地獄に墜ち入る」と説かれています。これほどまでに罪が重い「謗法」とは正しい仏の教え、つまり正法(しょうぼう)である『法華経』を信仰しなかったり、誹謗(ひぼう)したりすることです。
 また仏教では正法を信じず謗法の罪を犯していて周囲の者を惑わす人のことを「悪(あく)知識(ちしき)」といい、対して周りの者を正法に導く者のことを「善(ぜん)知識(ちしき)」といいます。
日蓮大聖人は信仰生活をおくる上で大切なことはこの「悪知識」と「善知識」をよく見定めて「悪知識」に近寄らず「善知識」によることが重要だと示されています。しかし同時に、このことは実際に人々が正法に帰依していない状況を考えると、とても困難なことであるので今月の聖訓を結びとして、その前段に「我門家(わがもんけ)は夜は眠り断ち、昼は暇(いとま)を止めて之を案ぜよ。」とのお言葉を書かれています。
 カレンダーをめくるのも今年最後となりました。普段なんとなく生活していると日々が過ぎていくのはあっという間ですが一年にも一生にも必ず終わりが訪れます。厳しくも有り難いこのお言葉を私達は常に忘れてはなりません。今年も残り少ないですが一日一日を大切にして悔いのない一年の締めくくりとしましょう。
(寿)

2021.11 法華経の利益 諸経にこれ勝るべし—薬王品得意抄—
  法華経の利益 諸経にこれ勝るべし—薬王品得意抄—
 この文言は日蓮大聖人が四十四歳の文永二(一二六五)年にお書きになられたと言われている『薬王品得意抄』の一節です。本書では、女性の成仏について触れられていることから、女性信者に宛てて書かれたものであると思われますが、諸説あり、誰に送られたのか確かなところはわかっていません。
 今月の聖訓は、「法華経によって得られる利益・功徳は他の諸経よりも勝っている」とのお言葉です。書名にもある通り、本書では『法華経』の「薬王菩薩本事品第二十三」(『法華経』の第二十三章)について説明されています。「薬王品」には『法華経』が他の諸経に比べて優れている事が十の譬えによって説かれていますが、本書の中では十のうち大海、山、月、日の四つの譬えが次のように挙げられています。 
 『法華経』以外の諸経は、大河・中河・小河のようなもの、『法華経』それに対しては大海原である。(大海の譬え) 十の宝の山がある。一から九までの各山は『法華経』以外の諸経のように、それぞれに財宝がある。しかし十番目の須弥山は、『法華経』が他の諸経の功徳をすべて具するように、各山の財宝を全て備え持ち、さらにそれらよりもっと優れた財宝を持っている。(山の譬え)
 たとえ全ての星の光を集めても、月光には及ばないように諸経は『法華経』には及ばない、また月の光は宵の時よりも明け方の方が明るく見えるように、時代がくだった末法という今の時代にこそ利益を生じる。(月の譬え)
 『法華経』以前に説かれた諸経は星のごとくであり、『法華経』の迹門(前半)は月のようなものである。それに対して『法華経』の本門(後半)、特に「如来寿量品」に説かれる教えは日光のようなものであり、星、月に勝る。(日の譬え)
 また諸経でも仏教以外の教典でも、女性の尊厳や成仏は説かれていませんが、『法華経』には女性も成仏すると説かれているのだという事実をお示しになられ、『法華経』を信じ唱えることの大切さ、功徳の大きさをお教えくださっているのです。
(寿)

2021.10 法華経にあわせ給いぬ 一日も生きておわせば 功徳積もるべしー可延定業御書ー
  法華経にあわせ給いぬ 一日も生きておわせば 功徳積もるべしー可延定業御書ー
 この文言は日蓮大聖人が五十四歳の文永十二(一二七五)年にお書きになられた『か可えんじょうごう延定業ごしょ御書』に書かれている一節です。この御書は熱心な信者であったとき富木じょう常にん忍の妻である富木尼に対して送られたお手紙です。
 今回の文言は、「(富木尼は)有り難くも真実の教えである法華経に出会って信仰をすることができています。一日でも多く長生きすればその分、功徳を多く積むことができるのです。」とのお言葉です。
 この御書の中で日蓮大聖人は、法華経のやく薬おう王ぼさつほんじほん菩薩本事品第二十三(法華経の第二十三章)で「この経はこの世界にはびこ蔓延る病に対する良薬である」と説かれていることをご説明され、法華経によって病を治し寿命を延ばした例としてインドのあじゃ阿闍せ世おう王、中国のちん陳しん臣(天台大師の兄)、法華経の中に登場するじょう常ふきょう不経ぼさつ菩薩を挙げ、さらに「日蓮はは悲母をいのりてそうろ候ひしかば、現身に病をいやすのみならず、四かねん箇年の寿命をのべたり」といい、日蓮大聖人もご自身の母親に対して法華経による病気平癒の祈願を行ったところ病気による危機を脱したばかりかその後四年も延命されたことを書かれています。
 この御書を送られた富木尼は当時病に伏せていました。お手紙のなかで日蓮大聖人は病床にある富木尼に対して思いやりをもったお言葉で慰め、法華経信仰による功徳は疑いないと励まされており、同じく信者であり医学に明るいしじょうよりもと四条頼基を頼るように懇切丁寧に助言をされています。信者が苦しい時にも心からの気遣いをもって支えられた日蓮大聖人の人柄が伺われます。
(寿)

2021.9 濁水心なけれども 月を得て自ら清めりー四信五品抄ー
  濁水心なけれども 月を得て自ら清めりー四信五品抄ー
 この文言は日蓮大聖人が五十六歳の建治三(一二七七)年にお書きになられた『四信五品鈔』に書かれている一節です。この御書は有力檀越であった富木常忍に送られたものです。
 この御書の中では、熱心な信者であった富木氏が日常生活の中においての信仰態度や方法をどうしたらよいのかといった疑問に対して日蓮大聖人からの御教示がなされています。
日蓮大聖人は法華経の「分別功徳品第十七」(法華経第十七章)に説かれている「四信」と「五品」という修行者の位を説明され、その中でも「四信」のはじめの位である「一念信解」(教えを聞いて心から信仰すること)と「五品」のはじめの「初随喜品」(教えを聞いて喜びの心を起こすこと)の功徳が最も大きいとされています。
 仏教では教弥実位弥下といって修行する人の位が低くなっていくにしたがって逆に教えは次第に優れていくと考えられています。機根(仏の教えを理解する能力)が低い者達が生きる末法の時代には最も優れた法華経の教えが必要であり、修行態度として信心受持(信仰すること)が最も肝要であり、信心をもって仏の智慧に代えるということを示されています。
 さて今回の文言は、「濁った水には心はないが、月を映して自ずと澄んでいく」とのお言葉です。この後の文には「草木は雨を得て自然に花を咲かす、妙法蓮華経の五字はただの経文ではなく、法華経一部の意を備えていて、その意味を理解せずとも信行することによって法華の意を得るのである」と続きます。
 これらのことは南無妙法蓮華経のお題目の功徳を顕わしています。つまり濁水にとっての月のように、また草木にとっての雨のように、私達にとってお題目は私達が意図を持たずとも信行し触れることによってその功徳を得ることが出来る有り難い法なのです。
(寿)

2021.8 過去の因を知らんと欲せば 其の現在の果を見よー開目抄ー
  過去の因を知らんと欲せば 其の現在の果を見よー開目抄ー
 この文言は日蓮大聖人が五十一歳の文永九(一二七二)年にお書きになられた『開目抄』に書かれている一節です。『開目抄』は多くの御書の中でも特に重要とされる五大部の中の一つに数えられています。この御書は「人」開顕の書と言われ、末法の時代(現代)に正しい教に人々を導く導師が日蓮大聖人であることが示されています。
 さて今回の文言は、過去に存在する物事の原因を知りたければ現在の結果を見れば良いというお言葉でこの言葉は経文から引用されたものです。
 日蓮大聖人はこの『開目抄』をお書きになられた当時、時の幕府から佐渡に流罪され、常に死と隣り合わせと言っていい厳しい状況におかれていました。この佐渡流罪も表向きは「流罪」でしたがその実、死罪に等しく、実際に日蓮大聖人は龍口で斬首になる寸前まで追い詰められながらも奇跡的に免れその後、佐渡に流されました。日蓮大聖人はこのような境遇にあって御書中に「いかでか天扶け給はざるらん・・・我身法華経の行者にあらざるか。此の疑は此の書の肝心、一期の大事(経文には、法華経を修行する者には天の扶けがあると説かれているのにどうしてその守護がないのだろう、私が真の法華経の行者ではないということだろうか、この疑問はこの書を書く上で非常に大事な事であって私の一生の中でも最も重要なことである)」とのお言葉を書かれています。
 日蓮大聖人は『開目抄』の中でこの疑いについて明らかにされていきますがその理由の一つとして自身の過去の宿罪(謗法罪)が挙げられています。宿世(過去世)においては恐らく多くの謗法の罪(正しい真実の仏法以外の教えを信仰する罪)を犯してきたであろうことに触れ、その結果が現在に顕れていると感得されています。しかしその罪は現世において真実の教えである法華経を修行することにより滅され、それこそが大いなる悦びであると示されています。
(寿)

2021.7 法華経を持つ者は必ず成佛し候―種種御振舞御書―
  法華経を持つ者は必ず成佛し候―種種御振舞御書―
 この文言は日蓮大聖人が五十四歳の建治元(一二七五)年~建治二(一二七六)年にお書きになられた「種種御振舞御書」という御書に書かれている一節です。この御書はもともと「種種御振舞御書」と別に伝えられてきた他三篇の御遺文を後世になって一篇にまとめられて現在のかたちとなったものであり、文永五(一二六八)年の蒙古国からの国書の到来から日蓮大聖人が身延山に入られるまでの様々な出来事が書かれた日蓮大聖人の自叙伝的な内容になっています。今回の文言は法華経を信仰する者は必ず成仏を遂げるという日蓮大聖人の法華経の行者としての確信に満ちたお言葉です。
 この「種種御振舞御書」では次々と襲い来る法難と日蓮大聖人の法華経色読の御生涯が書かれています。法華経色読とは身をもって法華経を読む、つまり法華経に説かれている事柄をそ の身に体現させるということです。
 御書中には「日蓮は末法に生まれて妙法蓮華経の五字を弘めて、かかるせめにあへり。仏滅度後二千二百余年が間・・・一切世間多怨難信の経文をば行じ給はず。数数見擯出の明文はただ日蓮一人也」と示されています。「一切世間多怨難信」は世の中に怨みに思うものが多くいて(法華経を)信仰することが難しいこと、「数数見擯出」は(信仰の為に)しばしば追放されることを意味しています。日蓮大聖人は法華経を信仰し世に弘めることによって法華経以外の教えを信仰していた時の権力者や僧侶から幾度も命を狙われ、流罪にされるなど壮絶な迫害をうけます。しかしこのように法華経の文に説かれていることを実際に体現した者は日蓮大聖人ただ一人だけであって、これはかえって(仏の教えを体現できている)この上えない慶びであることを示されています。
 日蓮大聖人の法悦(信仰による悦び)は決して自己中心的な独りよがりのものではありません。その動機は世の人々、たとえそれが自らを怨み迫害を加えてくるものであっても正しい仏の教えによって全ての者を救うことです。非常にシンプルな今月の聖訓ですが、このお言葉は日蓮大聖人のお覚悟と壮絶な体験の上に示されたものであると受け止めなくてはなりません。
(寿)

2021.6 大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納めたり -月水御書-
  大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納めたり -月水御書-
 この文言は日蓮大聖人が四十三歳の文永元(一二六四)年にお書きになられた『月水御書』という御書に書かれている一節です。
この御書は日蓮大聖人の信者であった比企大学三郎の妻に宛てて書かれた御書です。大学三郎は天皇にも仕えた優秀な学者でしたが、日蓮大聖人にも深く帰依して自らの妻や母親と共に法華信仰に励みました。この御書では日頃の信仰態度としてお勤めをどのようにしたら良いかという問いに対して、日蓮大聖人がお答えになっています。
文言には、大海にある水は一滴であっても、その一滴には数えきれないほどの江河の水が納まっていると示されています。このお言葉はお題目を唱えることによる功徳を例えられたもので南無妙法蓮華経のお題目をお唱えすれば法華経一部、二十八品を唱えるのと同じ功徳を得ることができるとのお示しです。
法華宗では日蓮大聖人の教えに従い南無妙法蓮華経のお題目をお唱えし信行することを第一義の「正行」として、法華経を読誦することを「助行」としています。つまり成仏の種である南無妙法蓮華経のお題目を聞いて、自らも唱えて他に聞かせる信行が最も重要な修行となります。対して法華経を読誦することは「助行」とされていますが、「助行」であるから読誦はしなくて良いということではありません。
お題目を薬に例えるならば法華経はその薬の効能や成分が書かれている説明書です。自らの信仰を深め人々にそのありがたさを弘める為にはやはりその内容を知ることが重要で、それによって題目口唱にも力がはいります。また読誦をしてその意味がわからなくても読誦の儀式を体験することで興味がわき、新たに縁が結ばれる機会になるかもしれません。
題目口唱の信行を欠かさず、自らの信仰をよりいっそう確実にするために法華経を読誦し、日々教えに触れることが大切です。
(寿)

2021.5 法華経は種の如く 佛はうへての如く 衆生は田の如くなり -曽谷殿御返事-
  法華経は種の如く 佛はうへての如く 衆生は田の如くなり -曽谷殿御返事-
 この文言は日蓮大聖人が五十五歳の建治二(一二七六)年にお書きになられた『曽谷殿御返事』という御書に書かれている一節です。
この御書は日蓮大聖人の大檀越であった曽谷教信に宛てて書かれた御書です。曽谷殿は日蓮大聖人の檀越の中でも屈指の知識階級に属していたと言われており、この御書より他にも日蓮大聖人より重要な法門の書かれた御書を与えられています。
 文言には、例えて言うならば法華経は種であり、その種を植える植え手は仏様であり、私たち衆生は田んぼであるとのお示しです。 この種とは私たちが仏になるため、成仏するための仏種子です。私たちは本来誰でも仏になれる素質(仏性)をもっています。この御遺文にもあるように私たちの心は種を植える田に例えられます。仏としての土壌はもともと備えているけれども、そこには田があるだけで仏として実を成す為には種を植えなくてはなりません。その種が法華経であり、もっと具体的に言えば私たちがお唱えしている南無妙法蓮華経の お題目です。
仏種としてのお題目を聞いて私たちの心に仏に成る為の種が植えられ、さらにお題目を聞いて、信じて、口に唱える「聞信口唱」の信行を続けることで心に植えられた種が育っていき最終的には仏として実を成し成仏が遂げられるのです。
 お題目によって心に仏の種を植えることを種を下すという意味で下種といいます。この下種をする主体は御遺文にあるように本仏釈尊ですが今の世(末法)に直接的に下種を行うのは我々法華の信者です。そして私達を教導して本仏釈尊の真意を伝えて下さる方こそ日蓮大聖人であり、この故に日蓮大聖人は「末法下種の大導師」と仰がれるのです。
(寿)

2021.4 うつりやすきは人の心なり 善悪にそめられ候 -西山殿御返事-
  うつりやすきは人の心なり 善悪にそめられ候 -西山殿御返事-
 この文言は日蓮大聖人が五十五歳の建治二(一二七六)年にお書きになられた『西山殿御返事』という御書に書かれている一節です。 この御書は駿河国富士郡西山郷(現在の静岡県富士宮市西山)に住していた地頭であり宗祖の信者である大内氏に宛てられたお手紙文です。文言には人の心は変わりやすく、善にも悪にもなると書かれています。このお手紙では「邪悪の者にそめられぬれば必ず地獄におつ。法華経にそめられ奉れば必ず仏になる」と続きます。
 仏教の教えに「十界互具」というものがあります。十界とは全ての存在や生存領域を十種類に分けて理解する考え方で「仏界・菩薩界・縁覚界・声聞界・天界・人界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界」と分けられます。十界を互いに具えるということですから全ての存在、例えば私たち(人界)にも仏の境地が具わっていて成仏することができるし仏にも地獄界が具わっているため地獄界の境地に囚われている衆生も救済することができます。先月のカレンダー解説にも「地獄」も「仏」も私たちの身の内、心の内に存在するのだとの宗祖のお言葉を紹介しましたが、このことも「十界互具」から理解することができます。
 私たちの境地(心)は文言のごとくとても移ろいやすく時と場所や関わる者達によって様々に変わっていきます。特に気分が悪い時や何か嫌な事があった時には欲望や嫉妬や不満等のマイナスの気持ちに心が囚われよけいに悪い方へと向かってしまうことはよくあります。まさに、「邪悪の者に・・・地獄におつ。」ですが、そんな時こそ全てのものが平等に成仏できる教え、思いやりをもって自他共に利する菩薩行が説かれる法華経の題目を心にお唱えし、煩悩にそめられぬように自らの心を見つめてみましょう。
(寿)

2021.3 幸せ
  当世日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。命は法華経にたてまつる。【開目抄】
 あなたはどんな時に幸せを感じるだろうか。おいしい食事を食べたとき、好きな人と一緒にいられるとき、欲しいものが手に入ったとき、温かい布団に横になったときなど、いろいろと思いつくことだろう。
 宗祖日蓮大聖人は自らの命を法華経にささげられることが、何よりの幸せと感じたのだ。宗祖は人々の苦しみを仏教で救おうと志し、たくさんの経典を学び、法華経こそ末法の人々を救うことのできる唯一の教えであることを突き止めた。そしてこの法華経の教えを弘め、お題目を唱えることを人々に強く勧めた。その結果、様々な迫害にあい、ついには佐渡に流罪となってしまった。このお手紙は厳寒の佐渡において蓑(みの)をかぶって寒さと飢えに耐えながら書かれたものだ。このような境遇にあっても宗祖に後悔の念は微塵(みじん)もなかったであろう。自らが選んだ道を進むときに痛みはつきものだが、目的のためならば、痛みすら前に進む糧となるのだ。
 幸せを感じる瞬間は人それぞれだ。ただ、これまでの人生を振り返って幸せだと感じるかどうかは、どれだけ一生懸命に生きたかどうかではなかろうか。人の命は必ずいつか終わりを迎えるが、その中で仕事でも勉強でも打ち込めるものがあることで、その人生は充実したものになるに違いない。今日終わりを迎えることになったとして、やりたいことがたくさん残っていたとしても、やり終わったことに後悔はしたくない。
 なにかに打ち込んでいる姿は人を魅了する。それは命が輝いているからだ。命の輝きが増すように生きることこそが、幸せな人生を歩む方法なのではないだろうか。
2021.2 信心の光
  信心と申すは別にはこれなく候。妻のをとこ(夫)をおしむが如く、をとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く、子の母にはなれざるが如くに、法華経・釈迦・多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて、南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり。【妙一尼御前御返事】
 先日、あるお檀家さんが亡くなった。この方は、お寺の婦人会に参加し、お会式などの法要はもちろん、その準備やお掃除などにも積極的に参加されていた。人前に立って、あれこれと指示を出すことはせず、どちらかというと恥ずかしがりやでおちゃめな印象の方だった。
 ご自宅に納棺のお経にお邪魔すると、枕元には使い込まれた数珠と付箋が張られくたくたになったお経本があった。「一生懸命信心してきた証だなぁ」と思った。ふと、あたりを見回すと標語やことわざ、人生訓などが紙に書いて壁に張り付けてあった。その中に直筆で「信心のない世界はくらやみ」と短冊に書かれていたものに目が留まった。お会式などで聞いた法話の一説だろうか、何かの本の一説だろうか定かではないが、この方にとってよほど心に残った言葉なのだろう。
 さて信心について宗祖は妻が夫を惜しむように、夫が妻のために命をかけるように、親が子を大切にするように、子供が母親を求めるように法華経・釈迦仏・多宝如来・諸仏諸菩薩・諸天善神を信じ奉って南無妙法蓮華経と唱え奉ることだという。
 この亡くなられた方は生前、住職に「お上人さんに拝んでもらってあの世に行けるならなんも怖いことも、不安なこともない。」と言っていたそうだ。こういえるのは住職への信頼もさることながら、法華経、お題目に対する絶対の信頼がなければ、こんな言葉は出てこないだろう。この方にとって信心は苦しいことが多い現世を生きる上での光であり、自分の足元を照らし、自分が進むべき道の指針となったのだ。病を患い、不安なことも、恐怖もあったことだろう。けれど信心がその支えになったのだ。
 いまでも、あの人が一生懸命お寺の掃除をされていた姿が思い出される。現世で得た信心の光によって霊山浄土への道が明るいものでありますように。南無妙法蓮華経。
2021.1 魂を染める
  世間の人の有様を見るに、口には信心深き事を云うといえども、実にたましいにそむ人は千万人に一人もなし。【身延山御書】
 今月の宗祖のお言葉は、深く信心をしていると言う人はいるけれども、実際は魂を染めるほどの信心を持っている人は千万人に一人もいないというもの。この言葉を他人に当てはめてしまっては意味がない。他人のことをとやかく言うのではなく、自分自身はどうなのかと自問自答して、はじめてこの言葉が生きてくるのではないだろうか。
 魂を染め上げるほどの信心が備わっている人の行動は見習うべきに違いないし、そういう人は声高に「自分はこれだけやっている」と吹聴することもないだろう。なぜならどれだけやっているかが重要なのではなく、信心によって自分の行動がどうなっているかが重要だからだ。一生懸命信心していると口では言っても、人をないがしろにしたり、感謝できないようではきっとまだまだなのだ。
 ならば、魂を染めるだけの信心とはどれほどのものなのだろうか。その答えはわからないし、測りようがない。お経を全て諳(そら)んじることが出来るとか、お題目を100万回唱えたとか、それをやり遂げたからといって魂が染まっているかどうかというと、やはりわからないのである。けれど、様々なことに感謝することができ、素直で、人を差別なく、優しく接することができ、苦しむ人によりそい、人としてしっかりと人生を歩んでいるような人は魅力的に感じる。財産や肩書も大切なものかもしれないが、人間的な魅力を前にすれば財産も肩書もかすんでしまう。人間的魅力は一朝一夕では作れない。「どうだ、俺魅力的だろ」という人はどうも安っぽく感じてしまう。口に出さずともその魅力は分かる人には分かるだろうし、分かってもらいたいから自分を磨いているわけではないだろう。
 口でどれだけ頑張りや魅力を伝えるよりも、誠心誠意努めてきた自分自身を見てもらったとき、素晴らしいと感じてもらえるほうがよっぽど説得力がある。魂を染めるほどの信心をしている人はきっとそんな人に違いない。
2020.12 大切なものは?
  いのちと申す物は、一切の財の中に第一の財なり。【事理供養御書】
 年末を迎え、今年たまった汚れをしっかりと落として綺麗な状態で新しい年を迎えようと、毎年大掃除を計画している。しかし、どうせ明日も使うからと最後の最後まで掃除を先延ばしにしてしまい、残り2日ほどになって掃除を始めるので、どうしてもいつも間に合わななくなってしまう。大掃除に加え、最近では「断捨離」というのもよく聞くようになった。私の知り合いも先日、断捨離を行ったそうだ。家にあるいらないものを捨てたおかげで家が広くなったとようだと話していた。
 そもそも断捨離はヨガの思想からきており、不要なものを入れない(断)、不要なものを捨てる(捨)、そしてモノへの執着から離れる(離)ということで断捨離という。一方で「もったいない」という言葉もある。もったいない精神は大事なことだが、いつか使うかもしれないと思って大事にとっておいたモノも結局使わなくなってしまったという話はよく聞く。これではせっかくのモノがかわいそうだ。結局は手に入れる段階でよく吟味し、本当に必要なのか、大切なのかを見極めることが必要になる。
 私たちにとってもっとも大切なものは「命」である。自分の命はもちろんだが、他の人や生き物などの命も大切なのである。だから他者の命も大切だし、私たちの命は食べ物となった生き物たちの命によって養われているのだから、それらの命も大切なのだ。
 断捨離だといって、家のモノを捨てるのは比較的簡単なことだろう。けれどその前にもっと大切なことは本当にそのモノの「命」を輝かせることができるかどうかということ。つまりしっかり使ってあげられるだろうかということをもっと考えなくてはならない。そうすればモノを大事にする「もったいない」も「断捨離」もうまくいくに違いないし、年末の大掃除も少しは楽になるに違いない。
2020.11 あたたかな心
  うへたる人には衣をあたへたるよりも、食をあたへて候はいますこし功徳まさる。こゞへたる人には食をあたへて候よりも、衣は又まさる。春夏に小袖をあたへて候よりも、秋冬にあたへぬれば又功徳一倍なり。【兵衛志殿御返事】
 10月下旬ころから境内のモミジの葉が赤や黄色に色づき始め、最近風が吹くたびの、その葉が舞うようになってきた。秋の深まりを感じるよりも、冬の訪れを感じずにはいられない。冬物の外着を羽織ってみると、寒さでこわばっていた顔も和らぐ。
宗祖日蓮大聖人は、おなかがすいている人には衣服を与えるよりも、食べ物を与えるほうが功徳は勝っているし、凍えている人には食べ物よりも衣服を与えたほうが功徳は勝っているだろう。春や夏のように暖かい時に小袖を与えるよりも秋冬の寒い時に小袖を与えるほうが功徳は一段と勝っていると示されている。朝のお勤めでも吐く息が白い日が多くなってきたが、そういう時こそ暖かい衣服のありがたさを感じるものだ。
 暖かさが必要なのは私たちの心も同じだ。事ある毎にテレビに取り上げられる「あおり運転」のニュース。私の目に触れるのは氷山の一角でしかないだろうから、実際はより多くのあおり運転がなされているに違いない。法律によって厳しく取り締まるようになったし、ドライブレコーダーを取り付けている車も増えたのにいまだに無くならない。あおり運転の原因は時間がないことから生じる焦り、思い通りにいかないイライラなどが加わった結果といえる。そもそもハンドルを握るドライバーにあたたかな心がなければ、いくら抑止する法律や道具があってもあおり運転はなくならない。
 焦りや思い通りにいかないイライラといったものは、車を運転している時だけの特別なものではない。私たちが生きていればどんなときにも生まれてくる。車を運転しているからあおり運転という行動になるが、車を運転していない時には心無い言葉などに姿を変える。普段から大事なのはあたたかな心、相手を思いやる、優しい心だ。あおり運転や心無い言葉は私たち人間の行いなのだから、これを防ぐのもまた人間でしかない。法律や道具も助けてはくれるがやはり私たち一人ひとりの心がけが肝要だ。
2020.10 対義語
  苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へゐ(居)させ給へ【四条金吾殿御返事】
 長いと短い、高いと低いなどという対立する意味を示す言葉を対義語と呼ぶ。小学生や中学生のときに国語の授業でならったと思う。その当時は、全く違った意味の言葉であり、遠くかけ離れた場所にある言葉だと思っていた。対義語という言葉の意味としてはその通りだが、実生活においては、対義語は遠く離れたところにあるようには感じられないのである。
 あるとき、60代の男性のお葬式を行った。まだまだ年齢も若かったが、病に倒れ闘病の末、亡くなられてしまった。家族全員が涙を流し、泣いていた。一連の弔い事が終わり、亡くなられた方の息子さんと話をしているときのことだ。「闘病中の父はとても苦しかったと思う。けれど、家族と一緒に過ごせた時間は父にとって得難い、とても楽しく、幸せな時間だったと思います。病気をしなかったらこんなに一緒の時間を過ごすことはなかったかもしれない。」と話してくれた。
 苦しみの中で見つけた幸せな時間、亡くなられた男性にとっては病と向き合うための大きな力になっていたに違いない。病でやせてしまってはいたが、最後まで生きる、生ききる姿は家族に力強い夫として、父親としての姿を示したに違いない。
 私たちの人生には楽しさだけがあるわけではなく、苦しみもまたやってくる。けれどどちらか片方だけがあるわけではない。苦しさのなかに楽しみや幸せも隠れているし、楽しい時間を作り出すために、どこかで苦労が重ねられているのも事実である。大切なのはその時間に真摯に向き合えるかどうかではないだろうか。私たちの人生には苦楽どちらも存在する。しかもどちらも意外と身近にあって苦しみを裏返してみると楽しさが隠れていたりすることだってある。宗祖がおっしゃるように苦楽ともに人生にはつきものだと思って、今置かれている状況でしっかりとお題目を唱えていく、つまりしっかりと生きていくことこそ大事なのだ。
 しっかりと生きるとは、その時間と真摯に向き合うこと。向き合えば必ず苦しみも楽しさも喜びや悲しみが湧いてくる。その思いを大事にして、次の一歩を踏み出すことが生きることに繋がっていく。その時間に向き合わなければなんの思いも起こらない。無関心、無感情では次の一歩は定まらない。あれだけ泣いていた息子さんも葬儀のあと、立派に挨拶をされていた。苦しさのなかで、何かを得たのだろう。そう思えてならない。
2020.9 イライラ
  常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱べし。【唱法華題目鈔】
 大したことではないけれどもイライラすることはよくある。ちょっとした言葉遣いが気に食わなかったり、急に割込みされたり、ちょっとぶつかったりと、イライラの原因はそこかしこに存在する。
 イライラは漢字で「苛苛」と書くそうで、ものの本によると「いら」とは、植物のとげのことを指し、とげが身体を傷つけ、心をいらだたせるのであろう、と記されていた。草取りなどをしていて何の変哲もない草だと思い引っ張ってみると、小さなとげがあって指が痛くなり、途端に草取りが雑になってしまうなんてことがある。些細なことだけれども、その些細なことが心をかき乱してしまうのだ。  「苛」という字に「め」を送ると「いじめ」と読む。いじめかどうかは受けた側が心身の苦痛を感じているかどうかで判断されるようだ。個人的な意見だが、いじめた側の心の内はどうなのだろうか。きっとなにかしら心に引っかかることがあって、小さなとげが刺さり、その傷が疼いて、イライラしているのではないだろうか。これは子どもに限ったことではない。大人の社会にあっても「いじめ」とよばれない、イライラが原因の暴力や差別、偏見がそこかしこにある。
 私も人間なのでイライラすることがある。そんなときは手を合わせて、お題目を唱えることで少しの時間を作るようにしている。するとたいていのことは大したことではないと、心を落ち着けることが出来る。小さなとげによってできた小さな傷が、心をかき乱し、手を振り上げたり、大声をあげてしまったら、振り上げた手は相手を殴ろうと振り下ろされるだろうし、一度出ていったとげとげしい言葉は戻ってはこない。叩かれた人、言葉を投げつけられた人の心にはもっと大きいとげが刺さり、深い傷が残ってしまう。そうならないためには心に少しの余裕を作ることが必要だ。
 「なむみょうほうれんげきょう」と三回口に出せば大体5秒くらいになるだろう。小さなとげなら5秒で抜け落ちるだろう。そしたら他の誰かを傷つけることもなくなる。「苛苛」から草のとげを抜いてあげると「可可」。できる、できると励まされているような気になる。
2020.8 宝物
  子にすぎたる財なし、子にすぎたる財なし。【千日尼御返事】
 今年のお盆のある光景。20年ほど前に檀那さんをなくしたおばあさんが娘さんと息子さんに脇を抱えられながら、旦那さんをはじめとするご先祖さんのお参りにこられた。旦那さんが亡くなる前からお寺のお手伝いや法要にもよく来てくれていたが、ここ1,2年で足腰が急に弱り、外に出る回数が少なくなってしまったそうだ。
 「どうも、よくお参りくださいました」と声をかけると、「いやぁ。恥ずかしい。こんな風になってしまった。情けないわぁ」と照れ笑いを浮かべながら話してくれた。歩くたびに子供たちから「大丈夫?ほら、段差あるから」と声をかけられながらようやく仏様の前に着くとろうそくに火をともし、線香をあげて、お題目を唱え始められた。その声に続いて子供たちも一緒にお題目を唱え始めた。
 年老いた母親の両脇を抱え共に歩き、亡くなった父親やご先祖様の為に供養のお題目をお唱えする姿は、言葉足らずだが「いいなぁ」と思える。日蓮大聖人も、阿仏房の遺骨を佐渡から身延山へと運び納骨し、翌年またお参りに来るほどの熱心な信者となった阿仏房の息子の藤九郎守綱の様子をその妻千日尼に対し「子にすぎたる財なし」と褒めたたえている。
 お参りに来てくれたおばあさんは自分の体の状態を指して恥ずかしいとか情けないと言っていた。確かに自分の思い通りにいかないことが増え、若いころと比べれば情けないと感じてしまうのだろう。けれど嘆くよりも自慢してほしい。親を支え、先祖を供養してくれるしっかりした子供たちはまさに宝物に違いない。
2020.7 七夕
  法華経の行者の祈のかなはぬ事はあるべからず。【祈祷鈔】
 七夕を前にして、スーパーに行ってみると入り口に願いが込められた短冊が笹に飾られていた。願い事をみると、野球がうまくなりますように、お金持ちになりますようにといった願い事が書かれている。そのうちの一つに「みんなで修学旅行にいけますように」と書かれたものがあった。今の時世を考えるならば、新型コロナウイルスの影響によるものだろう。
 新型コロナウイルスに対しては法華宗でも様々な祈りがなされている。法華宗の布教機関誌『無上道』6月号等には新型コロナウイルスで亡くなられた方々の供養とこの危機的状況の早期終息、医療などに携わる方々への感謝と身体健全などを皆で祈ろうと呼びかけられている。
 日蓮大聖人は法華経の行者の祈りは必ず叶えられるとおっしゃっている。私たちの祈りは自分だけが感染しなければいい、自分は感染しても軽症であってほしいというものではない。自己中心的な祈りは自己中心的な行動を呼ぶのである。このウイルスによって亡くなられた日本中、世界中の方々を供養し、世界がこのウイルスの恐怖に打ち勝ち、安穏な日々がおくれますようにという祈りが私たち法華経を信仰するものの祈りである。あまりにも壮大なことかもしれないが、そうでなくては安穏な日常は戻ってこない。私も祈りは大きく、行動はできることからを心掛けている。
 七夕の願い事は織姫が織物や裁縫が上手だったことにあやかって、習い事や芸事の願い事をするのだそうだ。ただ、今回ばかりは織姫様にも頑張っていただいて、なんとか修学旅行に行きたいという願いを叶えてあげてほしい。
2020.6 心のこもった新しい生活様式
  日蓮、此経の故に現身に刀杖を被り二度の遠流に当る。【波木井三郎殿御返事】
 全国で緊急事態宣言が解除されたが、私たちには「新しい生活様式」の実践が求められている。新型コロナウイルスを想定した世界を生きるためにいわゆる三密をさけたり、マスクをしたり、手洗い等が示されている。
新しいことが定着するには苦労がともなう。宗祖においては苦労というより苦難、困難といったほうがいいだろう。当時、法華経を信じ、お題目を唱えるという宗祖の信仰は万人に受け入れられたわけではない。特に念仏を信仰していた人からは反感を買い、宗祖自身の住まいを焼き払われたり、道で切りつけられたり、斬首されそうになったり、2度も流罪になったりと、今の私たちには考えられないような命の危機が次々と起こった。それでも宗祖は命がけで教えを説き続けた。
 命をかけるというのは、ただやみくもに命を捨てるということではない。宗祖は法華経のために命を捧げようとしたのであって、無駄に死のうとしたのではない。法華経に真摯に向き合い、信じぬき、教えを実践した。つまり人生を法華経のためにささげた結果、お経に説かれるような困難にあったが、長い年月を経て、今を生きる私たちにお題目が繋がっている。
 さて、私たちは「新しい生活様式」の実践を求められている。しかし実践することが目的ではない。私たちが命をかけてすべきことは大切な人を思い、守ることのはずだ。大切な人のことを真剣に思うことで「新しい生活様式」に心がこもる。その心を自分の大切な人だけではなく、知らない人にも向けてほしい。なぜなら自分に大切な人がいるように、自分の周りにいる知らない人も誰かの大切な人だからだ。心のこもった生活様式が根付いた先には、新型コロナウイルスに怯えずに生活できる日常とともに、今よりもちょっとだけあたたかい世界になってほしいと願ってやまない。
2020.5 鯉のぼり
  設ひ父母、子をうみて眼耳有りとも物を教ゆる師なくば畜生の眼耳にてこそあらましか。 【日女御前御返事】
 ここ最近、鯉のぼりを見る機会が減ったように感じる。以前に比べれば鯉のぼりをたてられるようなスペースが少なくなったのだろう。そもそも鯉のぼりは端午の節句に男児の健やかな成長を願ってされる風習といわれる。ひな祭りなどの風習も含めて子供の健やかな成長は親のたっての願いである。健やかとは心身が健全なことをいう。子供が丈夫で元気に、かつ心も豊かに育つには私たち大人の役割は大きい。
 宗祖のいう「物を教える師」とは偉大な先生や高名な学者のことではなく、子供のまわりにいる人、皆を指す言葉であろう。もちろん私たち大人がその筆頭である。私たち大人の振舞や言動を子供たちはよくマネする。5歳児ともなれば言い訳などもいつの間にか覚えてしまっている。それをよくよく聞いているとどうやら私たちの言い回しとどことなく似ているのだ。子供は大人の鏡といえる。
 はじめにも書いたが、子供たちが元気に健やかなに育ってほしい、幸せな人生を歩んでほしいと願うのは当たり前のことだ。ならば、そう願う私たち大人もそういう願いを自分にも向けて生きなくてはならない。子供の幸せな人生を願うなら、私たちは一日一日を頑張って生きることの大切さを示さなくてはならない。幸せになってほしいと願うばかりで近くにいる私たちが苦しい顔ばかりを見せていては、幸せとは何たるかを知らない大人になってしまう。
 大変な時でも充実した表情はキラキラしているし、苦しい状況にある人に向けられる優しさは温かくその人を包んでくれる。私たちが生きる上で大切なことはたくさんあって、それらは日常の中に存在している。その時々に私たちがどうふるまうかで子供たちの未来は少しずつ変わっていくのだ。今は小さい緋鯉かもしれないが、やがて大きな真鯉となってしっかりと急流の人生を泳ぎきれるよう、今私たち大人が気張らなくてはならない。
2020.4 苦楽
  苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思合て、南無妙法蓮華経とうちとなへゐ(唱居)させ給へ。【四條金吾殿御返事】
 生きていれば楽しい事だけではない。苦しい事も必ずあるし、むしろ苦しい事のほうが多いかもしれない。  お釈迦様は人間の苦しみを大きく8つ挙げられた。有名な生・老・病・死の四苦に加え、愛する人と別れる苦しみ、憎い人とあう苦しみ、欲しいものが手に入らない苦しみ、人間を構成する要素から生じる心身の苦しみというものを加えた八苦である。こういわれると確かになぁと感じる所がある。年齢を重ね、今まで頑張ってきた体が悲鳴を上げるということも、それなりに感じられるようになってきた。体の不調に加え、なかなかうまくいかないこともある。
 新型コロナウイルスの感染拡大防止の観点から様々な活動を自粛せざるを得ない状況が続いている。私が住職をする寺でも毎年恒例であった法要も檀信徒の方々にはお参りを見合わせてもらうことにし、毎月行っているお講も中止にしたりしている。
 生きていれば自分の思い通りにいかないこともある。今回のことは、自分の力ではどうしようもないことだ。しかし、その一方でうまくいかないと思いながら物事を進めていると、思いもしないいい結果を得られることもある。さきの法要では、せめてお焼香だけでもといって、近隣の方々がお参りに来てくださったり、日を変えてお参りに来て下さるかたもいた。本当に有り難いことだと心にしみた。こういうご信心、信仰によって支えられているんだと改めて知ることができた。
 それ以降、宗祖が御示しになられたように、苦しいことも楽しいこともひっくるめてお題目を唱えている。そうすると唱えられていることが、ありがたいことだし、なにかコロナの話題で疲弊した心が元気を取り戻してくるような感じがする。先が見えない状況に変わりはないが、お題目を口にだすことで明日のために今日一日を大事にしようと思えるのである。
2020.3 よき人
  よき人にむつぶもの、なにとなけれども心もふるまひ(振舞)も言もなを(直)しくなるなり。【随自意御書】
 新型コロナウイルスが猛威を振るい、日本のみならず世界中で感染者が増え続けている。日本でも外出自粛が呼びかけられ、大小さまざまなイベントが中止、あるいは延期されている。重苦しい雰囲気だけでなく、実際息苦しいと感じているのは私だけではないだろう。
 このような状況の中、問題の一つはマスクやアルコール消毒などの品物の買い占めである。コンビニやドラッグストアに立ち寄った時にマスクなどが置かれている棚を見ても、そこには「入荷未定」と書かれた張り紙があるだけ。かれこれそんな状況がひと月くらいになっただろうか。
 連日、新型コロナウイルスに関連した報道がなされるなかで、目に見えない敵との戦いは不安が絶えない。一方で、大変なことが起きているとは知りながらも、どこか自分とは関係ないと思っている人がいることも確かだ。不安にかられ、衝動的な行動に走るのもよくないし、かといって全く無関心であってもいけない。宗祖のお言葉に「良き人と仲良くなると知らぬ間に心も行動も言葉づかいまで、素直に良くなっていく。」と示されている。今言う「よき人」とは現状をよく理解し、そのうえで自分ができることをする人、スーパーの空の棚をみて、買いだめに走らず、いったん落ち着いて考えてから行動する人が求められる。そういう「よき人」に私たちはならなくてはならない。
 不安なのは皆同じだ。けれども不安を解消する方法を間違えてしまっては、新たな不安を生み出してしまう。自分だけが良くても不安は解消されない。不安を解消するために今こそ互いを大事に思う気持ちが必要だ。
2020.2 風邪をひいた布団の中で
  病によりて道心はをこり候か。【妙心尼御前御返事】
 先月下旬から風邪をひいてしまい、鼻が詰まり息もしづらい期間があった。そのため、夜もしっかり眠れず、日中はティッシュを片時も手放せない日々が続いた。そんな時思ったのは、普通に眠れていた日々だ。布団に入れば、ものの数分で眠りにつき、朝まで全く目が覚めないことがどれだけ有り難かったか。健康な体のありがたさを病気になって気付かされた。
 日蓮大聖人のご信者に妙心尼御前(みょうしんにごぜん)という方がいる。この方とその夫も病をきっかけに信仰の道に入った。夫は病気になったことをきっかけに信心をはじめ、妙心尼御前は夫の死が近いことを知り何とかしたいという思いから尼になったという。夫のために妻が尼になるなんて、ただただ凄いことだなぁと思ってしまう。けれど、現代でも親が子供のためにお守りを持たせてくれたりすることがある。自分以外の人のためになにかしてあげたいという思いに変わりはない。その思いから起こる行動に大なり小なりあるけれども、行動を起こそうというその気持ちを大切にしなくてはならない。
 私たちは何気なく毎日を過ごしている。ところが、ふとしたことでケガもすれば、病気にもなる。自分の体に不調をきたすと病院に行ったり、薬を飲んだりして養生するが、その状態に至ってしまった自分自身の心持ちはどうだろうか。以前と変わりなければ、そのうちまた同じ轍を踏んでしまうだろう。
 そうならないためにも、休んでいる間に身体だけでなく、心も調えられたらいい。そのための法華経、お題目である。とりあえず、合掌しお題目を二、三度丁寧にお唱えしてほしい。病やケガはお医者さんや薬でなおし、お釈迦様の最高の教えである法華経とお題目で心を調えれば、またしっかりと歩んでいけるだろう。
2020.1 良い指導者
  されば仏になるみちは善知識にはすぎず。【三三蔵祈雨事】

 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

 先日、ラジオから年末から正月にかけて忘年会やお正月といった行事がかさなり、すこし食べ過ぎてしまって余分な肉がついてしまったから、ダイエットするためにジムに通うという声が聞こえてきた。経験者として、頑張れという思いでその話を聞いていた。
 ダイエットの成功のカギは、「正しい知識」、「続けること」などいくつかある。しかし、私にとっては厳しい眼を向けてくれる「指導者」が必要だった。その指導者のおかげでダイエットは見事成功した。
さて、仏になる道、つまり仏道を進むためには善智識、良き指導者を得ることが最も大切である。やみくもに修行したところで間違ったやりかたでは、遠回りになるか、あるいは全く進むことができないこともありうる。仏道を成就するには、釈尊が説かれた教えの通り修行することが肝心である。その手本となるのが宗祖日蓮大聖人である。私たちは宗祖がされたように、他者への思いやりと感謝の気持ちを持ち、南無妙法蓮華経のお題目を聞いて唱えて、唱えて聞かせる修行をすることで仏道を一歩一歩、歩むことができるのである。
 今、私たちの目の前に日蓮大聖人はいらっしゃらないが、そのお心や行動は残されたお手紙などから読み取ることができる。歴史の教科書では他宗を厳しく批判したことなどが特筆されるが、そうした側面だけではない。ご信者の悩みに寄り添い、動物にも感謝の気持ちを贈られる姿は教科書には書き記されていない。他宗に対する厳しい姿勢は、末法の世にあって本当に救われる教えは法華経であるとの信念からであった。
 良い指導者にはいくつか共通点があると思う。その一つは「厳しさ」。厳しさに裏打ちされたやさしさこそ、きっと人のためになるに違いない。
2019.12 鍛錬
  きた(鍛)はぬかね(金)は、さかんなる火に入ればとく(疾)とけ(蕩)候。氷をゆ(湯)に入がごとし。剣なんどは大火に入れども暫とけず。是きたへる故也。【四条金吾殿御返事】
 今年一年を振り返ってみると、ラグビーワールドカップが最も印象に残っている。前回大会、南アフリカ代表に勝ってから注目したが、今大会はテレビにかじりついてみていた。屈強な男たちがぶつかり合いながら前に前に進む姿に、力は入りっぱなしで試合が終わると肩が凝ってしまっている。相手の突進を食い止めるために、自分の体をぶつけて止めるわけだから、その体はどれほど鍛えられているのだろうか。ただ、試合をみていて感じたのは体の強さではなく、むしろその心の強さだ。体格に勝る相手に対しても臆することなく、ぶつかっていく。それも一度や二度ではない。1試合80分間の間に何度も何度もやってくる。タックルしたらそれで終わりでもない。すぐ起き上がって、次のプレーへと走っていく。それだけで胸が熱くなった。
 わたしたちは日々の生活を送る中で、すぐに簡単なほう、楽なほうへと流されていってしまう。やったほうがいいとはわかっていながらも、やらないほうが楽だからと考えてついついやらなくなってしまう。あるいはその逆もしかり。やらないほうがいいとわかっていながら、やったほうが今は楽だからとついついやってしまうことがあるのではないだろうか。それでは、すぐに周りの状況に流されてしまう。自らがこうなりたい、こうありたいとするゴールを見据えないままにただただ流され、行き着いた時には「こんなはずじゃなかった」と頭を抱えることになる。
 日本代表の選手たちはもちろん、コーチ、チーム関係者も目標であったベスト8入りを目指していろいろなものを投げ出して、注力してきたにちがいない。目の前の楽ではなく、本当に勝ち取りたいもののために今の苦難を選んだことで、目標を達成し最高の瞬間を手に入れることができた。
 鍛えることは簡単なことではないし、気力も時間もかかる。けれどそれに躊躇していては、一向に自分は成長しないまま、むしろ退化してしまう。はじめの一歩を踏み出しさえすれば、そこから成長は始まる。来年は千里の道も一歩からの気持ちでいこう。
2019.11 笑顔
  瞋(しん)は地獄、貪は餓鬼、痴は畜生、諂曲は修羅、喜(き)は天、平(へい)は人(にん)なり。【観心本尊抄】
 久しぶりに甥っ子たちと遊ぶ機会があった。やんちゃ坊主たちは私の体が丈夫なのをいいことに前からも後ろからも抱きついてきては、抱っこしろだの、おんぶしろだの、無理なお願いをとびっきりの笑顔でしてくるのだから答えないわけにはいかない。おかげでものの数十分で私の腰は悲鳴をあげることになったが、甥っ子達の笑顔は私の心をいやしてもくれた。
 ただ、かわいい甥っ子とはいえ、たまに目を疑うようないたずらをしでかすこともある。ほんとに同じ子なのかと思ってしまうこともあるが、なにもそういったことは子供に限った話ではない。重大事件を起こした犯人の普段の様子を尋ねられた人が「挨拶もしてくれて気さくでいい人です」というような事を話すのは珍しくはないだろう。
 私たちの心の中には地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏という十の世界が渦巻いている。どんなに優しい人の心にも修羅がいて、ふだん怒りっぽい人の心にも仏がいらっしゃるのだ。その十の世界が私たちの心の状況によって顔をのぞかせ、私たちの表情や仕草に表れてくる。
 宗祖のお言葉に「平は人なり」とあるが、自分の身を振り返ってみてどうだろうか。他人をうらやみ、妬み、攻撃したり、後先考えず本能のまま行動してみたり、怒り、憎しみの心が大きくなってはいないだろうか。もしそうなら、心が荒れてささくれだっているのだろう。肌荒れなら化粧水や薬で治すこともできるだろうが、心のささくれを治す方法の一つは笑顔だろう。だれかの笑顔にふれると心が柔らかくなり、自分も笑顔になれる。その笑顔がまた他の誰かを笑顔にしてくれる。こうして心を治せるのは同じように十の世界を持ち、苦しむ相手の心に寄り添える私たち「人」に他ならない。
2019.10 助け合いは思い合いから
  近年より近日に至るまで、天変地夭(てんぺんちよう)・飢饉疫癘(ききんえきれい)、遍く天下に満ち、広く地上に迸(はびこ)る。【立正安国論】
 日本は自然災害が多い。地震や台風、火山や洪水など、多種多様な環境があるが故に自然の恵みも脅威も身近にある。しかし近年は、地球温暖化のせいなのか南の島に降るかのような猛烈な雨が降ったり、台風はより強力に、そして大型化していると感じる。先日の台風や大雨でも甚大な被害が発生してしまった。自然の力を前にすれば、人間の力は随分と小さく感じるが、それでも自然とともに歩み続けてこれたのは、人間の力であろう。
 今月の日蓮大聖人のお言葉は宗祖の代表的な著作の一つ『立正安国論』の冒頭である。大雨や大風などの天変地異がおこり、飢饉が続き、疫病が流行して、災難が天下に満ちているという文章である。鎌倉時代にあっても、現代と同じように自然災害などで危機的状況にあったのがよく分かる。しかし、それでも人は命をつなぎ、令和の世にあっても、その歩みを進めている。その力はなんだろう。科学技術や土木技術の発展によるところも大きいだろう。しかし、その根本にあるのは、互いに助け合うこと、そして、そのはじまりこそ、思い合いである。
 苦しんでいる人、悲しんでいる人に思いを寄せ、そして行動に移す。宗祖は、災難の起こる原因を仏典に求め、そこから何をすべきかを導き、立正安国論として書き記し、時の権力者、前執権北条時頼に進覧したのである。そうすることで、多くの人を苦しみから救えるという確信から生まれた行動だったのだろう。現代においても、他人事ではないという思いで様々な行動が生まれている。
 被害にあわれた方々のためにと募金をしたり、ボランティアにいったりと様々である。先日、こんな話を檀家さん達にすると、自分たちも備えをしっかりしよう、避難所を確認しようと話が盛り上がった。人への思いは、自らを動かす力になる。互いを思い合うから、令和の世まで歩みを進めてこれたに違いない。
2019.09 アウトドアオフィス
  我弟子等はげませ給へはげませ給へ『諌暁八幡抄』
 日蓮大聖人は、法華経こそ末法に生きる私たちが唯一救われる教えであると布教を展開された。その布教は他宗を激しく攻めるものであったため、松葉ヶ谷法難、伊豆流罪、小松原法難、龍口法難・佐渡流罪といった四大法難をはじめ、幾多の困難に見舞われた。数々の困難を経て、佐渡に流罪となり、彼の地で南無妙法蓮華経を唱えることでしか私たちが仏の道を歩むことは出来ないという宗教的境地の極みに至ったのである。
 そこまでの境地に到達できたのは、これまでの経験や幾多の困難に加え、その当時、宗祖の置かれた状況、そして佐渡という厳しい環境の影響もきっとあったことだろう。
 近年、東京都心ではアウトドアオフィスなるものが広がりを見せているらしい。仕事をする環境を変えて新しいアイディアや新商品の開発を行うのにおすすめらしい。確かに環境を変えることで様々なアイディアが浮かぶといったことは少なからず経験がある。いつもは机に向かって文章を考えるが、そういうときは決まって良い文章が浮かばない。気分転換と思って外に出てみると、頭がスッキリして頭が急に回りだす。
 だが、ただ環境を変えるだけでは事足りないだろう。日頃から目的の物事について思いをつのらせ、考えを巡らすことがなければ目的が達せられることはないだろう。いずれにしても何かを生み出す、何かを解決するには、それ相応の苦労がつきものだ。分かってはいるがついつい楽をしたがってしまう自分がいる。それでもあがいてあがいて前に進もう。いつかきっと、その苦労が実を結ぶに違いない。
2019.08 心の声
  自身の思いを声にあらわす事あり。されば意(こころ)が声とあらわる。【木絵二像開眼之事】
 仏様の心の声を聞いたことがあるだろうか。なにをいきなり、無茶苦茶な質問だと感じるかもしれない。今回はお経について、ちょっと考えようと思う。 法華経は、たくさんあるお経の王様と言われている。というのも法華経では全ての人が仏になれる。その可能性を命あるもの全てが平等に有していることが説かれているからだ。仏様が亡くなられたあと、数千年以上後の世に生きる人たちに対し、もっとも大事なことを伝えられた。いわば仏様ご自身が生命を全うし、その人生において真理を追究し見出されたものが命の尊さ、そして命あるもの全てが平等に仏になれること、安穏の境地に到達できるということだった。その仏様の心の声が聞こえるだろうか。いや聞こうとしているだろうか。
 お経本には文字が記されている。その文字は仏様が説かれたお言葉、つまり仏の心を書きとどめたものだ。日蓮大聖人は「仏の御意(みこころ)あらわれて法華の文字となる。文字変じて、また、仏の御意(みこころ)となる。だから法華経を読む人はただの文字と思わず、仏の御意(みこころ)であると理解するべきである」とされている。仏教、ことのほか法華経を信仰するものとして、このことを忘れてはいけない。だれでも平等に仏になることができるという言葉の影には、「だから他の命を尊敬し、敬い、大事にしなければならない」という行動が求められている気がする。
 その心の声が聞こえているだろうか。誰のためでもない。そうして生きることが、仏の道に他ならない。
2019.07 マイクロプラスチック
  末代濁悪世の愚人は、念仏等の難行易行等をば抛て、一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱給べし。【善無畏三蔵鈔】
 マイクロプラスチックが世界的な問題となっている。先日、スーパーに行ったとき、これまでセルフレジに当たり前に用意されていたレジ袋が有料化されていた。袋についたバーコードを読み取ると、数円ではあるが料金が加算された。海洋からさらに遠い山間にもマイクロプラスチックによる影響が出始めている。
 マイクロプラスチックについて早速、インターネットで調べてみると情報が山のように、いや海のようにたくさんあふれ出した。だが、その一々を理解するにはいたっていない。海洋が汚染され、その汚染した海で暮らす魚が汚染され、最終的にはプラスチックを生み出し、使っている人間が汚染されてしまう。どのような人体への影響があるのか、どのくらいで影響が出始めるのか、どんな症状がおこるのか。そしてどうやったら問題は解決するのか。分からないことはたくさんある。一体どうしたらいいのだろうか。
 様々な問題が山積しているが、その問題に臆(おく)し何もしなければ、事態は悪い方へと流れていく。私が今できるマイクロプラスチック問題への答えはレジ袋を削減するためのマイバッグの持参。きっとこの行動が巡り巡って、より住みよい世界への一助になるに違いない。 宗祖のお言葉にも、末法という時代に生まれた私たちが仏道を成就するには、様々な障害がある。その障害を前に立ち尽くしていては仏の道を歩むことはできない。だから末法の凡夫である私たちはお題目を唱えて仏道を成就すべきであると示されている。
 環境問題も仏道も、そのゴールに至る途中には様々な問題や課題が多くある。その問題を頭で考えているだけでは前には進めない。ささいな事であっても今やるべきことをする事で環境問題も仏道も一歩ずつゴールへと近づいていくのである。
2019.06 翼
  鳥は一の羽にてとぶことなし。【四條金吾殿御書】
 高齢者が運転する車による事故のニュースが後を絶たない。ニュースをみるたび、やるせない気持ちになってしまう。そんな気持ちを紛らわそうと、別のチャンネルをみると、今度は子どもの虐待のニュースが目に飛び込んでくる。せっかく授かった命を何故、どうしてと答えの出ない問題を自分の中で反すうしていくうちに、底なし沼に沈んでいくようにどんどんと気持ちが滅入っていく。
 そんな沈んだ気持ちをあげてくれる、心温まるニュースもあった。芸人さんと有名女優さんの結婚発表のニュースだ。緊張した面持ちの中、お互いがお互いをしっかり見合い、尊敬し、尊重し、そして、なによりも二人寄り添い、これからの人生をともに歩んでいこうという強い思いが感じられた。二人の幸せいっぱいの笑顔がこちらに伝染したのか、私の難しい顔も徐々にほころび、いつの間にかおだやかな笑顔になっていた。
 日蓮大聖人の残されたお手紙には、夫婦の関係性を示すお言葉が幾つか見られる。このお言葉にある鳥の翼も夫婦に見立てることができるだろう。一人ではできないことも、二人の力を合わすことで乗り越えていくことができる。私たちが生きる、この迷いの世界では些細なことですら、自分のとるべき道を誤らせてしまう。だけれども、自分のことを支えてくれる存在があり、加えて自分も誰かの支えになろうとすれば、その歩みは確かなものになっていくだろう。
 先ほど取り上げたお二人は、まさに互いの翼であろうとしている。お互いの存在が、それぞれのモチベーションとなり、相乗効果で益々パワーアップしていく姿をみられるだろう。これからテレビでお二人を見るたびに自分自身に問いかけることにしよう。自分は誰かの翼たりうるかと。
2019.05 改元
  仏教を弘めん人は必ず時を知るべし【教機時国鈔】
  新しい天皇陛下の即位によって平成から令和へと元号が改められた。これを機に平成とは一体どんな時代だったのかを振り返るテレビ番組が、数多く放送されていたように思う。出来事や事件で振り返ったり、活躍した、あるいは話題になった人物を通して時代を振り返ったりしていて、当時のことを思い出しながら見入ってしまった。
 これほど、時代ということに焦点が当てられることは珍しいのではないだろうか。せいぜい、年末に一年を振り返ることぐらいではないだろうか。私達がいきる時代がどのようなものだったのかを知ることは、令和という時代をどう生きるかにつながるのではないだろうか。
 さて、時代を知る、時をわきまえるということは仏教でも重要視されることで、日蓮大聖人においても非常に重要な視点となっている。今月のお言葉にもあるように「仏教を弘めようとする人は必ずどんな時代であるかを知らなければならない」のである。それは、その時代がどんな様相であるかを知るとともに、その時代に生きる人がどんな素質や能力をもっているかを知ることで、その時代、さらにその時代に生きる人に適した教えを弘めることができるのである。これを追求した結果、日蓮大聖人は法華経が最も尊く、お題目を唱えることが最も重要であることを弘められたのである。
 平成という時代は日本で戦争がなかった時代であった。令和もこの状態を持続させたいのはもちろん、世界で戦争がない時代になってもらいたいと願うばかりだ。
2019.04 花粉症
   命と申す物は一身第一の珍宝也。『可延定業御書』
  人生、生きていれば楽しいこともあれば苦しいこともある。特にこの時期はつらいことが多い。数年前から花粉症と思われる症状に悩まされていて、目はかゆく、鼻水が止まらない。学生時代に花粉症のニュースを見たときには、「あんなのにかかるわけない」とか「例えなったとしても気合いでなんとかなる」と高をくくっていたが、そんな自分が今では恥ずかしい。
 小学生のころだったか、「相手の立場になって、相手がされていやなことはしてはいけない」と言われたことがあった。至極当たり前のことだけれども、それを大人になった今、できているかどうか甚だ疑問だ。それでも歳を積み重ねることでいろいろな経験をすることができている。自分が実際に経験したこととこれまでの事を考え合わせてみると、あのときはこうした方がよかったと反省することが多々見えてくる。
 宗祖は「命というのはこの身にとって第一の珍宝である」と言われている。命があるうち色々な事が起こるが、その出来事を糧として自分磨きに励まなくてはならない。自分を磨く機会を与えてくれる命、その命が続く人生の中で避けては通れないものをお釈迦様は四苦八苦と示された。老いや病が四苦に含まれるが、これに対する医学の進歩は人間の生に対する強い思いのなせるところだろう。医学の進歩よって医療技術はめざましく発達しているが、その恩恵をうける私たちは、自らの命、他者の命、ものの命をどう捉えているだろう。命以上に大切な物はないと頭で理解し、口に出してはいても、普段の生活はどうだろうか。書いている自分も自問自答していると、はからずもパソコンのキーを打つ手が止まってしまう。
 自分磨きは一生の宿題だ。宿題はまず教科書を開いて問題を見るところから始まる。問題から目をそらしては宿題はいつまで経っても終わらないし、むしろ積み重なっていく。目をそらさず、その問題を受け止めることで次の一手は必ず見出される。問題の大小、学校の宿題だろうが、私の花粉症だろうが、まずは問題をしっかり見定めることが肝心だ。
2019.03 しつけ
   夫れ、水は寒積もれば氷となる。雪は年累(かさな)って水精となる。悪積もれば地獄となる。善積もれば仏となる。【南条殿女房御返事】
 「嘘つきは泥棒の始まりだよ。嘘ついちゃいけないよ。」と子どもの頃、親に教えられた。初めは小さな嘘であっても、その嘘はだんだん大きくなってくる。小さな嘘をより大きな嘘で隠すなんて話を聞くが、その人自身も嘘で塗り固められていっている。嘘が重なれば悪となり、悪が積もればその人の人生は地獄となってしまう。
 悪につながるのは、嘘だけではない。いじわるだって、行き過ぎればいじめに変わる。最近、よく目につくのは「虐待」の二文字。これはしつけが行き過ぎるということもあるかもしれない。しかし、しつけの行き過ぎが続き日常的になってしまっては、個人的には「しつけ」ではなく、それは「虐待」と言うほか無いと思う。辞書によれば虐待とは弱い立場の者を強い立場を利用してひどい扱いをすることである。相手のことを思いやるこころはどこにもない。そこに虐待を正当化する理由は見つからない。
 一方、「しつけ」を漢字で書くと「躾」となる。その人を美しくするのが「しつけ」ならば、それを教える大人にもそれなりの心構えと態度が必要だろう。人を訓練して出来るようにするには、まずは自分が教えることが出来るように、自分自身が訓練して身につけなくてはならないはずだ。
 宗祖は「さいわいは心より出でて我をかざる」とも示されている。善い行いをすることは大事だが、まずは相手を思いやり、敬う心をしっかり持つことが始まりだ。子どもに心の優しい人になってほしいと願うなら私達大人がそうあろうと努めなくては、その願いは伝わらない。心に優しさを抱き、心から相手を敬い続けることで、大人も子どもも仏の道を歩むことが出来るのだ。
2019.02 違い
   六道九界の衆生の心いかんがかわりて候らむ。されば花をあいし、月をあいし、すき(酸)をこのみ、にがきをこのみ、ちいさきをあいし、大なるをあいし、いろいろなり。【千日尼御返事】
 人の考え方や好みは様々で十人十色、千差万別という言葉がぴったりくる。犬好きもいれば猫好きもいる。は虫類が得意な人もいれば、見た途端動けなくなるような人もいる。私はと言えば、は虫類が得意ではなく、特にヘビがまったくダメだ。反対に私の知人はヘビが苦にならないようだ。ある夏、お盆のお焚き上げ供養の折、燃えさかる炎の中から一匹のヘビが逃げ出してきた。ヘビは炎とお参りに来ていた大勢の人に驚きウロウロしていると、知人がヘビの尾を踏み、ヒョイと首を捕まえると茂みへと逃がしてやった。私は遠目で見るだけで、その場から一歩も動くことができなかったのは言うまでも無い。  人の違いを探せば枚挙に暇がない。同じ環境で育ってきた兄弟や姉妹でも趣味嗜好は違うし、考え方だって違ってくる。当然と言えば当然のことだがそのことは忘れがちだ。どうして自分と同じ考えにならないのか、なぜ同じように考えられないのかといったことでしばしばストレスを感じてしまう。そのストレスが積もり積もってケンカへと発展し、どうしても分かり合えない状態になったということを耳にする。そんな話を聞くと残念で仕方がない。違うもの否定し、同じものにそろえるのは簡単ではないが、その違いを違いとして認めることは出来るのではないだろうか。
 法華宗がよりどころとしている法華経は「誰でも必ずほとけになることができる」と説いている。考え方のみならず、理解力や賢さなど千差万別の私達ではあるが、その誰しもが等しくほとけになることの出来る尊い存在である。その根底を見失わなければ、お互いを大事にする事は出来るはずである。分かり合うのはその後でも遅くはないだろう。
 歳を重ね、幾度となくヘビを見かけてきた。あるとき、また別の知人がヘビを捕まえ、「ホラッ!」と私の目の前に顔を向けた。まさにヘビににらまれたカエル状態であったが、よく見るとヘビの顔
はどこか愛らしいところがあった。これまで、ただ漠然と嫌っていたのかもしれない。以来、私は未だヘビには触れないが、かわいいとは思っている。 もしかしたら、私達が分かり合えないのは相手のことをよく見ていないか、あるいは見ているつもりだからかもしれない。
2019.01 花には水を
   妙とは蘇生の義なり。『法華題目鈔』
 さて、昨年末、シクラメンの鉢植えをいただいた。きれいなピンク色の花が咲いており、玄関に置いておくといい香りがして、それだけで気持ちがすがすがしくなった。それからしばらくすると日々の忙しさに追われ、水やりがおろそかになってしまった。
生き物は正直で、水が足りなくなったシクラメンはピンと立っていた茎を横たえ、見るからに元気のない様子になってしまった。申し訳ないことをしたと思い、謝りながら、そして元気になれと想いを込めて水をあげた。翌朝、横たわっていた茎が立ち上がり、また元気な姿を見せてくれた。
その様子を見たとき、中学時代の数学の先生が贈ってくれた「花には水を、人には愛を」という言葉がうかんだ。何度も何度も、人には優しく接しなさいと言われたことも相まって、苦手な数学のことは皆目覚えていないが、あの先生の言葉だけはなぜか私の頭の引き出しにしっかり収まり、たまに顔を出してくれる。
今、この言葉を思い返すと愛とは異性を好きだ嫌いだという愛ではなく、人を思いやり、手を差し伸べる心、どちらかというと慈悲という言葉がしっくりくるのではと思う。昨年、スーパーボランティアという言葉がちまたを賑わせたが、当の本人はどこ吹く風、当たり前の事と言って、また困った人のところへと歩を進める姿は多くの人たちの共感をよんだ。あの人が言うように、困った人に手を差し伸べることは当たり前の事なのだろう。しかしそれを平然とすることの難しさを誰しも知っているからこそ賞賛したくなる。
私達の心にはそんな慈悲の心が眠っている。けれども深い眠りのせいでちょっとやそっとでは起きてはくれない。その心を目覚めさせるのはお題目であると宗祖は示されている。南無妙法蓮華経によって眠っている慈悲の心を呼び起こすことができるのだ。
あの先生はお元気だろうか。花に水をあげるのは忘れがちだが、慈悲の心だけは忘れず、その心でもって手を差し伸べる人に成長したい。
2018.12 続けることの難しさ
   我弟子等はげませ給へはげませ給へ『諌暁八幡抄』
 12月に入ると途端に増えるのが忘年会、減るのは財布の中身といったところだろうか。もうそんな季節になったのかと正直驚きを隠せない。今年は暖冬といわれ、初雪も遅かったせいで12月に入った気がしないでいたが、月日の歩みは例年と変わらず、壁掛けのカレンダーも残すところあと一枚となった。
今年はどんな年だっただろうか。私事だが日記をつけ始めた。と、言ってもまだ数ヶ月だ。まさに始めたばかりだが、私にとって日記は続けられないものの代表格であり、もっとも辞めてしまうものの一つなのだ。そんな日記だが自分史上、もっとも続けられている。まぁところどころに穴はあるが。
日記だけではない。勉強やダイエットなど何にせよ続けることはとても大変だ。どこかで諦めて辞めてしまう。私の日記でいえば、「よし日記を書こう」と思い立って用意したノートの初めの1、2頁に文字があるだけで、残りは未だに白紙のままというノートが数冊、本棚の片隅に追いやられている。そんな怠惰で継続性のない私が、続けることができそうな今回の日記。それは書かなくても辞めないと決めたから。
こういってしまうと毎日続けている人からすれば、続けていないのと同じだと叱られてしまいそうだが、私のような人間は、まず「やってみる」ことから始まり、「辞めないこと」が次にくる。「書けなかったら次の日からまた始める」の繰り返しでいいから辞めずにやってみようと思っている。全てのことを完璧にできる人はいない。だからできなくても諦めずにやり続けることで今の自分より少し成長した自分になれる。そんな今の自分の心境を、来年の今頃の自分はどう感じるだろうか。願わくば来年の自分が今の自分の心境を踏まえて少しでも成長してくれていると嬉しい限りだ。
年末になり、慌ただしさが増してくる。気ぜわしさからか、ついつい他への気配りが減ってくる反面、ちょっとの優しさでとげとげしい心も丸くなり、笑顔も増える。次の新しい年が良き年になるよう頑張っていこう!日蓮大聖人も「はげませたまえ、はげませたまえ」と背中を押してくれることだろう。
2018.11 名前
   明かなる事日月にすぎんや。浄き事蓮華にまさるべきや。法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名く。日蓮又日月と蓮華との如くなり。『四條金吾女房御書』
 先日、公衆浴場に行くと、私の地元では珍しく海外の方が入浴していた。私が露天風呂に入っていると後から来て、露天風呂に二人っきりに。私の英語力は全くの皆無、日常会話もままならないが話してみたいという願望だけは強く、ついつい声を掛けてしまった。
 どこから来たのか、こんな田舎にどうしてきたのか。お風呂はエンジョイできているのか。私の片言の英語と彼のたどたどしい日本語によって会話のようなものが成立していった。それでも彼が笑顔だったからか私も笑顔で会話(のようなもの)を楽しんだ。
 そんななか、彼から「あなたの名前はどんな意味があるのですか?」という質問が飛んできて、たじたじとなってしまった。自分の名前の持つ意味をなんと英語で相手に伝えたらいいのだろうか。
 名前には様々な思いや意味が込められている。宗祖のお名前「日蓮」については、「日蓮又日月と蓮華との如くなり」と言われるように、「日」は日月のように人々を照らし、「蓮」はどんな悪にも染まらない清らかさを表された。宗祖の御生涯を鑑みれば、法華経を信じ、お題目を広め、たくさんの方々の苦しみに寄り添い、光の指すほうへと皆を導いてくれた。そう生きようという思いが名前に刻まれていたと思うと宗祖の御生涯の尊さが改めて心に染み入る。
 さて、彼の質問に私は自分が持ちうる英単語を総動員して回答した。「私の名前の一字は祖父の名前の一字をもらったんだ。」すると彼はニコっと微笑んでくれた。うまく伝わったかどうかわからないが、私にとってはいい機会だった。私の中に祖父がいるという感覚が生まれたからだ。祖父は真面目で何事にも精一杯努力しお題目を唱え続けた人だという。自分でつけた名前ではないが、私も祖父のような生き方を志そうと思う。
2018.10 食欲の秋
  それ、食は色をまし、力をつけ、命をのぶ。『衣食御書』
 日ごとに秋の深まりを感じる。異常と呼ぶにふさわしい暑さも去り、朝晩の冷え込みのおかげで山間の木々の葉は少しずつ赤や黄色に色づいてきた。スーパーの食品売り場をみると、秋らしくサンマやキノコ、サツマイモ、柿などが並び、夏とはちがった賑わいがあって目にも舌にも楽しく嬉しい季節だ。
 先日、秋の味覚、栗をたくさんいただいた。ありがたいなぁと思いながらも、恥ずかしながら一度も自分で調理したことがない。ということで一念発起し栗の甘露煮を作ることに。栗を水に浸し、鬼皮をむき、渋皮をむき、塩水に浸し、甘く煮て、一晩寝かす。予想以上に手間も時間もかかった。皮をむき終わるのに2時間以上はかかっただろう。なれない作業のせいか、首や肩が凝り固まってしまった。次の日の朝、苦労して皮をむいた栗を口に運ぶと、売っているものに比べ、幾分甘さ控えめで栗本来の味わいが感じられる気がする。もちろん手間暇かけたおかげもあってか、断然自分で作ったもののほうが美味しく感じられた。
 私たちの命は様々なものを食べることで支えられている。宗祖のお言葉にもあるように、食べ物は私たちの血色をよくし、力を与え、生命力を高めて、寿命を延ばしてくれる。食欲の秋と称されるこの季節は様々な美味しいものがあふれる。おいしいものをたくさん食べることで私たちは活力を得て、頑張ることができる。ただ、今回、栗を自分で調理したことで気が付いたことがある。それは、普段私たちが食べる料理や食材にたくさんの時間や手間がかけられていること、そして時間をかけて育まれたものをいただいているという事だ。食欲の秋といって、おいしいものに舌鼓を打つだけではもったいない。そこに感謝の思いを抱くことでその食べ物はこれまで以上に私たちに力を与えてくれる。そんな気がしてならない。
 栗にはビタミンCが多く含まれているという。これから寒暖を繰り返す時期にあっては風邪予防などにうってつけだろう。旬の食材を美味しく頂戴し体を養うとともに、感謝の心で自らの心も養い、毎日を頑張っていこう。
2018.9 激励
  我弟子等はげませ給へはげませ給へ『諌暁八幡抄』
 今年の夏は「平成最後の夏」というキーワードが様々な場面で取り上げられていた。その中でも、高校野球、夏の甲子園は第100回の記念大会と相まって記憶に残るすばらしい大会だった。球児が白球を追う姿は、見るものの心を熱くし、感動を与えてくれた。ひたむきなその姿に球場に足を運んで、「がんばれ!」と声援を送ったり、そうでなくてもテレビを通してたくさんの方々が応援の気持ちを届けようとしたことだろう。かく言う、私もその一人だ。
 だが、応援しているはずなのに、試合が終わってみるとこちらが「頑張ろう!!」という気持ちになっていた。頑張っている人の姿は、それだけで見ている人を元気づけたり、やる気を起こさせたりする。甲子園100回の歴史の中で技術や体力は飛躍的に進歩したことだろう。けれども、その根幹にあるひたむきさや全力プレーはいつの時代も変わらず、見るものを惹きつけて離さない。そんな暑い夏とも、もう間もなくお別れだ。名残惜しいが、次の夏にも期待せずにはいられない。
 さて、今回紹介する宗祖のお言葉は弟子達に対しての励ましの言葉だ。飾りけのない、まっすぐな言葉で、今後の布教は困難であること、だからこそ精一杯精進することを奨めている。実際、宗祖はその熱烈な信仰と布教によって、お住まいを焼かれ(松葉谷法難)、伊豆へ流罪(伊豆流罪)になり、数百人の念仏者に襲撃され(小松原法難)、無実の罪で首を切られそうになり(龍口法難)、佐渡に流罪になるなど(佐渡流罪)、その苦難は大変なものであった。その苦難から逃げずに、その都度自らの信仰とはいかなるものかを自問自答し、さらに信心を深めていかれたのだ。多くの苦難にさらされても変わることのない、その姿に弟子達の心は奮い立ち、勇気づけられたことだろう。
 平成最後の年を生きる私たちが、この文章を拝し、宗祖の困難にひるまず布教する姿を思い浮かべるとき、果たして今のままでいいのかと考えさせられる。来年の今頃は新しい元号に少しずつ慣れてきているころだろうか。新元号の新たな年に期待を膨らませながら、よりよい年にできるよう、今から小さな頑張りを積み重ねていこう。
2018.8 宇宙船地球号
  汝すべからく一身の安堵(あんど)を思わば、先(ま)ず四表の静謐(せいひつ)を祷(いの)るべきものか。『立正安国論』
 7月は例年にないくらいの暑さにみまわれた。そのせいかプランターで育てている野菜も夏バテしているのか、元気がないように思う。暑さだけではない。過去、私たち人間が経験したことのないような量の雨が降った。7月上旬に発生した西日本豪雨(平成30年7月豪雨)ではたくさんの方々が被災され、また多くの尊い命が奪われてしまった。改めて亡くなられた方のご冥福をお祈りし、被災された方々にお見舞い申し上げるとともに1日も早い復興をお祈りするばかりだ。
 以前よりも災害に関する報道が増えたように感じる。台風や地震といったものだけではなく、梅雨時の大雨や異常な暑さはここ最近、特に増えているように思う。報道でも「ただちに命を守る行動を」とか「命に関わる非常事態」という言葉をたびたび耳にするようになった。自分自身、普段の生活の中で自然による驚異を意識する機会はほぼ無いに等しかったが、こんな言葉を聞くと人間は自然の厳しさの中で生きているということを再確認する。もっと人が生きていくうえで気を配らなければならないことがあるに違いない。  宗祖は「自分の身が安らかであることを願うならば、まず何をおいても世の中が穏やかになることを祈らなければなりません」とおっしゃっている。今まさに「世の中」という広い視野にたって物事を考える必要があるだろう。
 「宇宙船地球号」という考え方がある。地球を限られた資源しかもたない宇宙船と考えるものだ。そこに生きる私たちは宇宙飛行士で、限られた資源をどう使い、自分たちが暮らす環境をいかに守っていくのか考えながら生活しなければ、たちまちに立ち行かなくなってしまう。自分一人の行動が劇的な変化を生むかと言われると、答えは「ノー」かもしれない。けれども一人の行動が劇的な変化を生むきっかけ、第一歩になるかと問われれば、答えは「イエス」だ。周りの環境や社会との関りを考え、生きることで、ひいてはそれが自分のためにもなるのである。
2018.7 心のこもった供養
  目連尊者が法華経信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給。乃至子息・夫妻・所従・檀那・無量衆生三悪道をはなるゝのみならず、皆初住・妙覚の仏となりぬ。故に法華経第三云願以此功徳普及於一切我等与衆生皆共成仏道云云。【盂蘭盆御書】
 今月の法華宗の布教機関誌『無上道』の冒頭、お盆の特集が組まれていた。もうお盆の時期なんだなぁと季節の移り変わりの早さを感じつつ、読み進めるとお盆の由来や飾りつけについての説明がなされている。
 お盆の風景も色々だ。ある地域ではそうめんをお供えする日が決まっていたり、あるご家庭では立派な精霊棚が据えられていたり、ナスの牛とキュウリの馬がいるところもあれば、それがワラで作られていたり、帰省してきた子供たちのお土産がつまれていたり、手作りの料理がお供えされていたりと実に多種多様だ。
 お盆の準備といえば仏壇の掃除や飾りつけ、お供え物の準備など多岐にわたるが、その根底にあるのはご先祖様をお迎えしようという「おもてなし」の心だろう。「もてなし」とは心をこめて応対することだが、心をこめるとはいったいどうすればいいのか。
 私なりではあるが、そのものに真剣に向き合うことだと思う。お供え物一つでも、こっちがいいかあっちがいいか思いを巡らせ、飾りの配置やお供え物の位置も気にかかる。そうした思いが形となったものが「心のこもったおもてなし」だろう。お経もスムーズに唱えられなくてもお経の文字を目で追い、できないなりに必死に口を動かすならば、それは心のこもったお経に違いない。
そう、どうやって心を込めるのかに思い悩むのではなく、やろうとする事柄に真剣に向き合えば、 それこそが心のこもったものであり、測ることのできない尊いものになるのである。様々な心のこもったおもてなし(供養)は必ずご先祖様をはじめ、生きとし生けるものすべてに届くことだろう。
 そんな心のこもったおもてなしをうけたご先祖様たちは、霊界に戻ったら、「今年のうちのお盆はこうだった」とか「今年は珍しいお供えがあった」と各々のお盆の様子を語り合い、また来年のお盆を楽しみにしてくれることだろう。
2018.6 笑顔
  親によき物を與へんと思て、せめてする事なくば一日二三度えみ(笑)で向へと也。『上野殿御消息』
 先月、5月13日は母の日だった。これに加えて、私の父は5月が誕生日なので、なにか二人にしてあげようと色々考えたが、結局のところメールでおめでとうと伝えるだけになってしまった。こういうとき、二人の好きな食べ物を御馳走するとか、すぐ行動に移せない自分が嫌になる。
 さて、今月の日蓮大聖人のお言葉は親孝行に触れる一節。親の言うことを聞き、親に贈り物をすることが紹介され、なにもすることがないなら、せめて一日に二三度、笑った顔で接することが親孝行の一つと示されている。仏教には「無財の七施」(眼施、和顔施、愛語施、身施、心施、壮座施、房舎施)というお金や知恵がなくてもできる施しがある。その一つ、「和顔施」とは和やかな笑った顔を施すという教えである。
 笑顔は人を柔らかく、穏やかにしてくれているなぁと感じる場面がある。例えば赤ちゃんににっこり微笑まれると、こっちまで目尻がさがる。そんなようなことはないだろうか。
 できることなら、もう少し前にこの御文に出会いたかった。それならメールだけではなく、実際にあって「これからもよろしく」「おめでとう」と声を掛けてあげられただろうに。今度は両親のもとに行けるときに笑った顔を届けよう。こんな息子の笑顔でもきっとうれしいに違いないと信じて。  
2018.4 初めの一歩
  建長五年四月二十八日、安房国東條郷清澄寺道善之房持仏堂の南面にして、浄円房と申者並に少々大衆にこれを申しはじめて、其後二十余年が間退転なく申。『清澄寺大衆中』
 学校の開校記念日や夫婦の結婚記念日ように法華宗にも記念日や聖日とされる日がある。よく知られているのは、宗祖日蓮大聖人の御会式だろう。御会式は日蓮大聖人が亡くなられた10月13日を基本として、その当日や前後に全国各地の寺院教会で法要が営まれる。そういった聖日の一つが今月28日に迎える唱題開宗だ。  宗祖は鎌倉や比叡山などで勉学修行に励んだ末に、仏様の本当の教えは法華経であることを知った。このことを伝えようと故郷に戻られ、集まった人たちの目の前で、末法に生きる私たちが信仰すべきは法華経であることを高らかに宣言したのが4月28日である。  初めの一歩を踏み出すことは、どんなことであれ勇気や決意が必要だ。よし。やろう、やってやろう。という意気込みなくして、何が始まるというのだろうか。  この時期になるとニュースで入学式や入社式の様子を時たま目にする。新しく小学校に入学した児童は、キラキラと目を輝かせながら、「勉強を頑張って、運動も頑張って、友だちをたくさん作りたい」と話す。そこには期待や希望が詰まっている。そう、なにかを始めるときには、その先に、「こうありたい」、「こうなりたい」、「こうしたい」といった希望がある。その希望を実現しようと努力し始める第一歩が勇気や決意だ。  私たちは、色々なものに気を取られて、よく自分の決意を忘れてしまうことがある。けれど、そんなとき、その決意を呼び起こしてくれる言葉がきっとかけられる。その言葉は耳が痛いものに違いない。けれどもそれをしっかりと受け取ってまた歩き始めればいい。自分の希望を実現できるように。
2018.3 お彼岸に当たって
  それ彼岸とは春秋の時節の七日、信男信女ありて、もし彼の衆善を修して小行をつとむれば、生死の此岸より苦界の蒼波をしのぎ、菩提の彼岸に至る時節なり。故にこの七日を彼岸となづく。【彼岸抄】
 3月の暦をみると、長い冬の出口が見えてきたように感じるのは私だけだろうか。私の故郷では2月まで音もなく降っては居座っていた雪も、3月になると徐々にその量が減り、土の部分がみえてくる。2月までのお日様は少しお疲れなのか元気がないように感じられるが、3月のお日様は力強さが増してきて、境内の雪をガサガサと溶かしてくれている。私にとって、お日様のありがたみを一年で一番感じられるのが今の時期だ。
 「ありがたい」は「有り難い」とも書く。恩恵を受けて、幸せを感じるのが「有り難い」、だとすれば、お日様は365日、休まず、朝を連れてくるし、植物を生長させるなど、日頃から私たちに恩恵を与えてくれている。けれども、私たちはそのことを忘れてしまっているか、あるいはそれが当たり前だと思って気にかけず日常を過ごしている。あって当たり前などと思うところに、幸せだと思う気持ちは湧いてこない。
 春分、秋分の日を中日として、前後3日間、合わせて7日間の期間をお彼岸という。春分の日は自然をたたえ、生物をいつくしむ日と祝日法で定められている。お彼岸にはご先祖様のお墓参りに出かける人も多くいるだろう。自然や生き物、ご先祖様のことなど、私たちは普段意識することなく生活している。だからこそお彼岸を機会として自分の身の回りの自然に目を向け、先祖に思いをはせてほしい。自分一人が生きるためにどれだけの恩恵を受けているのかを考えたりする機会にしてほしい。 例えば、自分が今日食べた食事を思い出し、そこにどんな料理があっただろうか。その料理を作った人、その料理の材料を作った人、材料を運ぶ人、実にいろいろな人の手が関わって自分の目の前に並んでいるのだ。自分自身もそうだ。ここまで成長するのに親の愛情に始まり、友だちとの友情、楽しいこと、嬉しいこと、悔しいこと、つらいこと、悲しいこと。全部ひっくるめて今の自分がある。
 色々なことやもの、人が関わり全てが自分にとっての財産、恩恵なのだ。そのおかげで自分がここにいるし、自分もまた誰かに関わって、誰かのためになっている。極端な言い方をすれば、この世は全て「有り難い」。けれども私たちはそれら全てを知り、感じることはできない。ならばお彼岸だからこそ、自分がどんな「有り難さ」の中で生きているのか考えてみよう。自分の身の回りにあるものを手にとって、そのものがどうやって自分の手元にきたのか。自分という人間がどう生まれ、どう成長してきたのか。通勤途中、食事中、夜眠る布団の中、少しの時間を使って考えてみよう。小さな幸せの中に自分が生きていることが見えてくるだろう。
2018.2 自戒をこめて
  所詮、妙法蓮華経の五字をば、当時の人人は名とばかり思へり。さにては候はず、体なり、体とは心にて候。【曽谷入道殿御返事】
 修行時代、先生が「お題目を頂戴する」ということをおっしゃっていた。上記のお言葉を鑑みれば「お題目に込められた心を頂戴する」ということだろう。その頂戴する側の姿勢についてハッ!とすることがあった。
 最近、お題目のリズムに合わせて太鼓を叩けるようになった方とお勤めをした。お題目を唱えていると太鼓の音が急に聞こえなくなった。一方でお題目を唱える声は大きいままだ。そうこうしていると再び太鼓の音が鳴り出した。終わった後、その方と言葉を交わしているとこんな事をおっしゃっていた。「途中でリズムが狂ったから太鼓を叩くのをやめました。叩くことに気持ちがいってしまって。やっぱり一語一語大事に唱えなきゃだめだなと、お経本に載ってるお題目を見ながらお唱えしてました。そしたら何となく、今度はスムーズに太鼓も叩けました。」と。
 お経本に書かれている「南無妙法蓮華経」の文字を拝しながらお題目をお唱えする。何度も何度もお題目を唱えることも大事だが一度のお題目を大事にすること、真剣に向き合うことも大事である。 日蓮大聖人は「南無妙法蓮華経と聞き唱えることによって、そこに込められた全ての功徳を知らぬ間に戴くことができる」と示された。南無妙法蓮華経はお釈迦様が、自分が入滅した後、人心が荒廃した世界で心を穏やかに、健やかに生きていけるようにと、私達に残してくれたのである。そのお題目を末法の世の中に命を賭して弘められたのが日蓮大聖人である。お釈迦様の私達に対する大きな慈しみの心、その心を受け取り私達の元へと届けようとした宗祖の思いが詰まったお題目。その一度のお題目のありがたさ、大切さ、お釈迦様や宗祖のお心に対して本当に「頂戴する」という姿勢になっているだろうか、今一度振り返ってみよう。 自戒をこめて。
2018.1 「本気でやる」
  身命を捨て仏法を学すべし。【松野殿御返事】
 いよいよ平昌オリンピックが迫ってきた。出場する選手にとってはこれまでの集大成となる。是非とも自分の力をすべて発揮し満足いく結果を残してほしい。近頃、テレビを観ていると、オリンピックに出場が決まった選手たちを紹介する番組に目がとまる。日々トレーニングを積んでいる選手たちが、さらに上を目指そうとより厳しいトレーニングに挑む姿が映し出される。画面を通してでも鬼気迫るものがビシビシと伝わってくる。
 日蓮大聖人も身命を捨てる覚悟で仏法を学ぼうとおっしゃっている。何事も覚悟がなくては自らのものにはならない。先ほどあげたスポーツ選手しかり、アメリカに渡る大谷選手、昨年話題になった将棋の藤井四段も真剣にそのものに向き合ったからこそめざましい結果を得られたのだろう。
 仏教は、仏さまが様々な悩みや苦しみが渦巻くこの世の中をいかに生きるかを探求し、そして悟ったうえでの教えである。その教えは読んで理解するだけでは机上の空論である。常に実践することが求められる。すぐにできないことが多いが、続けようとすることで習慣となり、その習慣はやがて人生を少しずつ豊かにしてくれる。
 オリンピックでみられるのは真剣勝負だけではない。相手を敬い、手を差し伸べ、そして相手を称える姿が随所に見られる。真剣に物事に取り組むからこそ、同じように努力してきた人への敬意がそこにあるのだろう。法華経、そして菩薩行と真剣に向き合うならば、そこにはすべてのものに対する敬意が生まれるはずだ。今年一年がよりよい年となるよう精一杯努力しよう。
2017.12 「来年にむけて」
  異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶ふことなし【異体同心事】
 1年が終わろうとしているが、どうもここ最近は明るいニュースが少ない。
連日のように誰が何発、何で殴ったとか、報告義務を怠った責任はとか、あるいは遠くの国を攻撃できる武器がいよいよ完成しそうだとか、心がさみしくなる一方だ。
 そんなある日、心温まる話が舞い込んだ。私の知人がお気に入りの小銭入れを電車で落としたそうだ。現金はさほど入っていなかったが、クレジットカードや身分証明書が入っていたという。カードの利用停止や紛失届などの事務手続きはやったというが、黙っていられるはずもなく自分が通った道を再度確認したり、駅の落とし物係に問い合わせたりと方々手を尽くしたが見つからなかった。それから数日後、一通の手紙が届いた。なんと小銭入れが見つかったという知らせだった。知人はお気に入りの小銭入れが見つかった喜びと安堵感から「本当によかった。拾ってくれた人ありがとう」と泣きながら喜んだという。
 警視庁によると財布や傘などの落とし物が届けられた件数は年間約383万件に上るという。世知辛い世の中とはいえ落としたものが自分の手元に戻ってくる可能性がある、そんな日本という国に少し自信がもてる。
 国とは、そこに住む人がどういう意識で生きるかで大きく変わる。自分たちがどう生きたいかの総意が国をその方向へと歩を進ませる。「自分だけが」という考えでは隣の人ともギスギスしてしまう。「あなたも、わたしも」というちょっとの思いやりがあるからこそ、安心して暮らせる日々がやってくる。安心で幸せに暮らしたいと願う気持ちは誰もが持っている。その程度は様々だろうが、同じ志であるが故に、相手を慮(おもんばか)ることができ、一人一人が異なる人であるが故にできることが違う。それぞれ一人一人が同じ志を持って各々ができることを成すことによって安心で幸せな日々につながっていく。
 来年一年間をどう過ごしたいか。慌ただしさのなかで時間を作って考えよう。考えたら小さな事から初めてみよう。なにも新年を待たなくたっていい。その分だけ来年一年が素敵になっていくのだから。
2017.11 「継承」
  末法の始に一閻浮提にひろまらせ給べき瑞相に日蓮さきがけしたり。わたうども(和党共)二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝ぐれ、天台・伝教にもこへよかし。【種種御振舞御書】
 物事には難しさが付きものであるとつくづく感じる。はじめの一歩を踏み出すには大なり小なり勇気がいる。長くし続けているといつ辞めるべきかと悩むこともあるだろう。ただ、物事を行う上で最大の難しさは続けることではないだろうか。自らを振り返ってもやり続けていることはそうそう見当たらない。自分一人でもそうなのに、伝え続けるともなれば、それはそれは大変な事である。
先月末、住職の交代式の祝宴にお招きいただいた。前住職、新住職共に晴れやかで、すがすがしいお顔だった。祝宴の最後、新住職の挨拶の時に、ふと、檀家さんへと視線を移すと、和やかなお顔の方、一言一句を耳に刻もうとまっすぐに新住職を見つめる方、中には涙ぐむ方もいる。次世代へと信仰が受け継がれることへの安堵と希望でいっぱいなのだろうと思うと、こちらの胸も熱くなった。
 私たちは、様々な物事に影響を受け、迷い、思い悩む弱い存在である。その私たちが物事をやり続け、そして次世代に伝えるのは容易なことではないし、ましてや一人の力では到底成し得ないだろう。けれども、それを支えようとする多くの方々の力が加わることで、その歩みは確実なものになっていく。祝辞のなかで、ある方が「新住職のお経のあげ方は前住職にそっくりだ。」と言っていた。伝え続けるのに特別な手法は必要ない。物事に真摯に向き合うその姿を見せれば良い。お互いにその姿を見せ合うことで、それがいつしか前に進む力となり、次の世代へバトンを渡すことができるのである。
 多くの方々が宗祖日蓮大聖人の後に続き、平成の世まで法華経、お題目の信仰を伝え続けてくれた。次は私たちの番である。受け取ったバトンをしっかりと握り、声高らかに今日もお題目を唱えよう。
2017.10 「一歩一歩」
  魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅樹(あんらじゅ)の花は多くさけども菓になるは少なし。【松野殿御返事】
 大学時代、メダカが一年でどのくらい卵を産むのかを試算したことがあった。するとメダカの体の大きさや環境にもよるだろうが最大で2000~2500個と試算された。あの小さな体でこれだけ沢山の卵を産むと思うとただただ凄いなぁと思うとともに、それだけ沢山産んでも、大人になれるのはほんのわずかだと思うと、何とも言えない感情が湧いてきた。
 宗祖は冒頭の文に続いて、人間も同じように「菩提心を発す人は多けれども退せずして実の道に入者は少し。都て凡夫の菩提心は多く悪縁にたぼらかされ、事にふれて移りやすき物也。」と述べられている。さとりを求めようと思う人は沢山いるが、途中で諦めず真実の道を歩み遂げる人は本当に少ない。私達のさとりを求めようとする心は悪縁にたぶらかされたり、事柄に影響されて移りやすいからだという。
 さとりをもとめる心だけが移りやすいのかといえばそうではない。私事で言えば、ダイエットだ。一念発起して初めてみてはみたものの、結局は三日坊主になってしまったことが数多い。そこでよく言っていたのが、目の前に食べ物があったから、あるいは友人が美味しそうに食べているのを見て、つい。といったことだ。それも宗祖の言う、悪縁や事柄なのだろうか。広く考えればそうかもしれないが、私の場合は結局の所、都合のいい言い訳に過ぎないだろう。
 私達は人間に生まれ、様々な教えがある中で幸運にも法華経に巡り会うことができたのだ。そうして仏への道を一歩、歩み始めたなら少しずつでいいから前に進む努力が必要だ。何事もいきなり大きな事は成し得ない。小さなことを積み重ねた先に大きな成果が待っている。歩みはのろいが一歩一歩をしっかりと踏みしめることこそ一番の近道なのだろう。
2017.09 「穏やかな生活を願って」
  汝すべからく一身の安堵(あんど)を思わば、先ず四表の静謐(せいひつ)を祷(いの)るべきものか『立正安国論』
 先日、地元の新聞を読んでいると27回目を迎える100キロマラソン大会の安全祈願祭が行われたというタイトルが目にとまった。記事を読み進めるとどうやら安全祈願祭が行われたのは今年が初めてだという。コースの一部が7月に発生した大雨で被災し改修中であり、加えて全国で予想できない大雨が発生していることもあり、交通安全と当日の好天も祈願することになったという。天候不順の影響はこんなところにも出ているのかと改めて考えさせられる。
 思い返せば、九州北部や秋田県などでは非常に強い雨が降り続き、大きな被害がでた。一方で西日本では連日の猛暑日が続いたかと思えば、東京では20日間以上連続で雨が降ったという。異常気象によって私の体調もおかしくなってしまうこともしばしばだ。この先どうなってしまうのかと、えもいわれぬ不安感に襲われることもある。
 ここ最近の異常気象の発生確率を高めていると言われるのが地球温暖化だ。地球温暖化の原因は人間活動によって排出される温室効果ガスによる影響が大きいと考えられている。大きく考えれば(ある特定の)人間ファーストという考えによるものではないだろうか。
 宗祖は『立正安国論』で「汝すべからく一身の安堵(あんど)を思わば、先ず四表の静謐(せいひつ)を祷(いの)るべきものか」とおっしゃっている。そう、私たちが安穏な日々を送りたいと考えるならば、自分の普段の生活のその先にある社会全体や自然環境に思いを馳せる必要がある。地球環境や社会全体に思いを馳せつつ、まず身の回りでできることから始めよう。とりあえず、明日行く予定の郵便局には歩いて行こう。
2017.08 「目連尊者が法華経を信しまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。」
  目連尊者が法華経を信しまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。【盂蘭盆御書】
 朝のお勤めをしていると、昨日掃除したばかりのところに蜘蛛が巣を張っているのが目にとまった。なんとも仕事熱心な同居者だ。なんて事を考えていると、あるお話しを思い出した。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」だ。
主人公のカンダタは、泥棒で殺人や放火などを行い地獄に落ちて苦しんでいた。その様子を見ていたお釈迦様は、カンダタが生前1匹の蜘蛛を助けたことを思い出し、地獄の苦しみから救ってあげようと蜘蛛の糸を一筋垂らす。カンダタはこれ幸いと、その蜘蛛の糸をよじ登って上へ上へと登っていく。あるとき下を見てみると同じように地獄に落ちた沢山の人たちも蜘蛛の糸をよじ登ってくるのが見える。このままでは糸が切れてしまうと思ったカンダタは「この糸は俺のものだ!」といった。するとその糸はプツリと切れてしまう。
 よく知られた話だが自分に置き換えてみたとき、自分だったらどうするだろうか。自分が助かる唯一のチャンスだと思えば、なにが何でもそのチャンスをものにしたいと考えるのも当然だ。だが、それではカンダタのようになりかねない。
 宗祖は、お釈迦様の弟子である目連尊者を例として、法華経を信じる功徳によって目連自身だけでなく、父や母も仏になることができると示された。上記の御文の後には「上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ」とつづく。私達が法華経を信仰する、お題目を聞き、信じ唱える功徳は自分だけのものではなく、広く先祖や子孫、数多の生きとし生けるものにめぐっていくのである。
 とかく私達は自分さえよければといいという考えに陥ってしまう。だが、私達はたくさんの縁の中で活かされている。カンダタのいった「この糸は俺のものだ!」の一言は縁を切り裂くハサミのような一言だ。法華経には「願わくは、自分が修行して得た功徳を広くあまねく一切に施して、皆共に仏道を成じられますように」とある。きっとこの心持ちで生活できたならば、自分もそのまわりも穏やかに過ごせるに違いない。
2017.07 「感謝の気持ちをお題目にのせて」
  いにしへよりいまにいたるまで、をやこのわかれ、主従のわかれ、いづれかつらからざる。されどもおとこをんなのわかれほどたとへなかりけるはなし。【持妙尼御前御返事】
 おばあさんの一人暮らしのお宅にお参りに伺った。年に一度しかお参りに伺えないが、お経が終わった後は時間が許す限りお話しを聞くようにしていると、ここ数年はお経よりも会話の時間のほうが長くなってきた。お経の最中は決まって私の後ろにある小さなイスに腰掛けて手を合わせている。お経が終わると私を自分が座っている席に呼び、お茶を出してくれ、他愛もないはなしが始まるというのが常だ。
 今年もおばあさんは元気な顔と声で迎えてくれた。昨年までと違うことといえば、お経が終わってからの話の内容くらいだった。
 「うちの旦那はすごかったんです。あの人が居なかったら私はこうして幸せな生活を送れていないでしょう。小さいながらもこの家だって、立て直すことができたのは旦那が一生懸命働いてくれたおかげなんです。仕事だって継いでくれたし、それなりに事業も大きくなったし、本当に感謝の気持ちでいっぱいなんです。でも今まで旦那には恥ずかしくて言ったことはないし、初めて話しました。死んでから言うんじゃ遅いですよね。」と恥ずかしそうに遺影に目をやる。本当に旦那さんを大切に思い、感謝の気持ちでいっぱいだったのだろう。感謝の気持ちで満たされたお題目を聞いた旦那さんもさぞうれしかったことだろう。その話を聞いていた私は思わずホロリ。
 折しもお盆を迎えるこの時季、自分の最愛の人やご先祖が霊界から戻ってきて、私たちのそばで共に生活をおくる。この時季だからこそ感謝の気持ちをお題目にのせて伝えて欲しい。茄子やワラの牛にのって再び霊界に戻るときには、沢山の感謝の気持ちで満たされた笑顔で帰られるに違いない。
2017.06 「孝行」
 孝と申すは高なり、天高けれども孝よりは高からず。孝と申すは厚なり、地厚けれども孝よりは厚からず。【開目抄】
   上記の一節はわたしにとって心に残る、そして文章とともに思い出がよみがえる一節である。
 私が僧侶の学校に入学する以前のこと、家族との何気ない会話のなかで母親が得意気に上記の一節を諳んじたことがあった。その冗長なリズムと分かりやすいものいいのおかげで心に残るとともに母親の「えへんっ!どうだ」というような姿が印象深い。十数年たったつい最近、この一節をまた母親が読み上げた。あの時と同じように得意げな感じの声だ。ただ一つ違うのは、そのあと母親が自分の子ども時代のことを少し話してくれた。
 母親が子どもの頃というから50年以上も前のことだろう。母親の実家はお寺で、毎朝祖父がお勤めをしているとき、御宝前の脇に掲げられた宗祖のお言葉が記されたカレンダーをめくるのが子ども時分の母親の勤めだったという。毎朝、毎朝めくるうちに、気に入った一節を覚えてしまったのだと、当時使っていたカレンダーを戸棚の奥から出してきて話してくれた。50年も前のカレンダーはところどころ切れて、留め具はさびている。ふるめかしいカレンダーの様相とは裏腹に母親の話は活き活きとしていて、その情景が目の前に浮かび、それまで心の片隅に残っていた心地よいリズムの一節にさらに一種の色彩を加えてくれた。私が生まれるずっと前、私の祖父がお経をあげ、その横で母親がカレンダーをめくる。そうして繋がれた一つの流れに自分も入れたような気持ちになった。
 「孝」という字は「老」を省略した形と「子」を組み合わせた字で、「親おもい」ということ。また「孝」はよく祖先に仕え、祖先をまつるという意味に使われることも多かったという。親を思うことは生きている間に限ったことではない。自分がいくつになろうが、親は親だし、子は子である。生きている間に親に尽くすことを孝行、ならば亡くなってからの孝行は供養だろう。言葉は違えどもその心、思いは変わらない。 上記の一節の後には以下のような一節がみられる。「仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。」仏弟子の端くれとして、恩を知り、その恩に報いるように努めたい。まずは母親に今の思いを率直に伝えよう。「ありがとう」と。
2017.05 故郷(ふるさと)
 父母のはかをもみよかしと、ふかくをもうゆへにいまに生国へはいたらねども、さすがこひしくて、吹風、立くもまでも、東のかたと申せば、庵をいでて身にふれ、庭に立てみるなり【光日房御書】

  誰しも故郷を懐かしく思い出すことがある。そのきっかけは様々で、聞き慣れた方言か、草木の薫りか、はたまた故郷の味か。私は無論故郷の味だ。 宗祖の故郷への思いは一入(ひとしお)だ。日本を救おうと鎌倉幕府に対し三度にわたる諫言を行ったが聞き入れられず、鎌倉から身延へと居を移し隠棲された。身延に入る前に一度、故郷の安房国(現在の千葉県)の父母の墓に参りたいとの思いも強かったが、錦を飾ることも出来ていない状況では帰れないと故郷に戻ることを断念したのだった。だが、そうはいっても父母の眠る故郷は恋しかったに違いない。宗祖は吹いて来る風、立つ雲が東方からといえば、思わず庵を出て、その風を身に受け、庭に立ち東からの雲に目をやり、故郷へ思いを馳せたという。どれほど故郷に戻りたかったかと思うと胸が締め付けられる。
また、ご供養としていただいた甘海苔をみて、ご自身の生まれ故郷の事を思い出したという手紙も残っている。
 この時期ちらほら五月病が顔をのぞかせる。慣れない環境に思わず塞ぎ込んでしまうのも無理はない。薫風が鼻をくすぐるこの時期に故郷が恋しくなることだってあるだろう。そんなときは無理せず故郷に帰ったらいい。親や友だちに電話したらいい。故郷は変わらずそこにあるし、親や友だちは話を聞いてくれる。
 私にも経験がある。人に会うのが億劫で、体調が優れないという典型的な五月病。そんな私の五月病は故郷の味でふっとんだ。故郷の力は前に進む力になり、倒れそうな自分を支えてくれる。故郷の有り難さが離れてみてようやく分かった。故郷よ有り難う。
2017.04 生活をみなおす
 夫れ十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。『瑞相御書』

  依報とは私たちが住んでいる環境であり、国土のことを指す。その一方で正報とはそこで生活する私たちのことを指し、依報と正報の関係性を依正不二(えしょうふに)という。光が体に当たることによって影が生み出され、影と体を引き離すことはどうやってもできない。私たちと環境も同じである。人の営みが環境を作り、その環境によって人が育まれる。
 先日、テレビを見ていると、このさき満開の桜が見られなくなるかもしれない、いや、実際咲いても満開にならない地域がすでに出てきているというものだった。その要因の一つが地球温暖化によって桜の咲く南限が北上するというものだった。私たちが今のままの生活をつづけると、いつか桜が見られなくなる地域が出てくる。それが私たちの代なのか、子供の代、あるいは孫の代になるか分からないが、今のままでは確実にその日はやってくる。
 宗祖は『立正安国論』で「汝すべからく一身の安堵(あんど)を思わば、先ず四表の静謐(せいひつ)を祷(いの)るべきものか」と示された。個人の幸せを願うなら、まず社会全体、国土の安穏を祈らなくては個々の幸せは達成されない。世界がぐっと身近に感じることができる現代に生きる私たちだからこそ、もっと広い視野で考え、自分にできることから始めよう。
 私たちが桜に限らず綺麗な花や景色をみて感動することができるように、私たちの次の世代、その次の世代にも当たり前にこの感動が味わえるよう、体である私たちがしっかり自分の足下を見つめなくてはならない。
2017.03 優しい心で
 地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申経もあり、或は西方等と申経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。【重須殿女房御返事】 【兵衛志殿御返事】

  地獄とはどこにあるのか。仏の世界とはどこにあるのか。それは私たちのこの体の内に備わっているという日蓮大聖人のお言葉。地獄のような恐ろしい心も仏のように優しくあたたかい心も私たちの内にあって、その時の状況や心持ちによってそれが感情や行動に表れてくる。仏の心とは慈悲の心。慈悲とは相手の幸せを望み、楽を与え、苦を抜くことをいう。ことわざに「仏の顔も三度まで」とあるが、仏の顔になれるということは、私たちの中に仏がいるということに他ならない。
 東日本大震災から6年の歳月が流れようとしている。あの日、初めて体験する激しい揺れに右往左往し、テレビに映し出された津波の映像に愕然とし、恐怖と不安が入り乱れた。地震と津波によって大勢の方が亡くなられ、悲しさで心が塞がれてしまった。そんなとき目に飛び込んできたのは被災地で活動するボランティアの人たちの姿、大変な状況のなかで被災された方々のためにと労を惜しまない姿だった。少しでも被災された方の力になりたいという思いが画面からも伝わってきた。その姿は、画面を通して私の心の不安も吹き飛ばしてくれた。私もがんばろう。そういう気にさせてくれた。慈悲の心は伝播していき、大勢の力になったことだろう。
 7回忌を迎える。あの時たくさんの人が悲嘆にくれた。それでも私たちの内にある仏の心は消えることなく、何度となく大勢の方々の苦を除き、楽を与えようとしてきた。改めて犠牲者の霊位にお題目の功徳を回向し、行方不明者の帰還と被災地の復興を祈ろう。とびきりの優しい心で。
2017.02 変わり目
 夏と秋と、冬と春とのさかひには必相違する事あり。凡夫の仏になる又かくのごとし。必三障四魔と申障いできたれば、賢者はよろこび、愚者は退、これなり。 【兵衛志殿御返事】

 節分といえば2月3日と思いがちだが、実際は立春、立夏、立秋、立冬の前日を指す。つまり季節の分け目、変わり目ということで「節分」である。特に冬から春への変わり目には豆まきをして疫病をもたらす鬼をはらい、また、その豆を歳の数だけ食べると体が丈夫になり、風邪をひかないといった言い伝えがある。最近では全国的にポピュラーになった恵方巻きはその年の縁起のいい方角を向いて太巻き寿司を一本丸ごと無言で食べると一年間健康でいられると言われる。昔から季節の変わり目を意識し、いかにすごすかということがよく考えられてきたのだ。
 私たちの人生においても変わり目はやってくる。宗祖は凡夫が仏に成るときには必ず三障四魔という仏道修行を妨げようとする障害が発生し、愚者はこれに恐れおののき退いてしまうが、賢者は立ち向かい、むしろその困難を喜ぶという。困難に遭うとひるんでしまう自分はもちろん賢者ではないが、励ましてくれたり、おしりを叩いてくれる人がまわりにいることは何物にも代えがたい大きな財産だ。順調に物事が進んでいるときには気がつかない、そういう人たちの「有り難さ」を困難というものは教えてくれる。
 私は師匠から「その人の苦労というのはその人が背負えるだけのものなんだよ」と言われたことがある。決して自分一人で背負いきれるという意ではない。本人の力に加え家族や友人、様々な人が脇から支え、手をたずさえ、その重さを克服していく、全部ひっくるめての背負える力なのだと思う。この力は一朝一夕では養えない。日々の小さな頑張りの蓄積が大きな力となる。
2017.01 素敵な一年にするには・・・
 燈は油をさせば光を増し、草木は雨ふればさかう、人は善根をなせば必ずさかう。 【上野殿御返事】

 明けましておめでとうございます。本年が皆様にとって幸多き一年となりますようお祈りいたします。
 昨年末、今年の一字ということで「金」が選ばれたが、私が真っ先に思い出したのはリオオリンピックである。一日何時間にもおよぶつらい練習、コンマ数秒のタイムを削るため、あるいはより美しい演技のため、あるいは1mmでも遠くに飛ぶため、およそ私たちが普段の生活では意識したこともないようなところにまで神経を研ぎ澄ませた努力が実を結んだ瞬間があのオリンピックの舞台である。選手達の真剣な眼差しや躍動する姿はキラキラしていて、まさに光り輝いてみえた。
 努力なしではあの舞台にはたてない。私たちが思い描く「幸多き一年」もそうだ。
 日蓮大聖人は、人はいいことをすれば必ず栄えると指南されている。善は種となり、根っことなる。まずは種をまき、大地に根をはろう。根っこが伸び、芽が出て生長し、花がさき、やがて果実がみのる。私たちの種は、他を思いやり、慈しむことで根をはり、芽吹き生長する。植物のように目に見える果実になるのはいつになるかわからないが、人の内面は日々様々に成長していく。だからこそ、長い目でみて、怠らずに意識し、行い続けることが大事である。意識はやがて習慣となり、習慣は人生という果実を実らせる。
 一年は一日の積み重ね、一日は現在(いま)の積み重ねである。現在(いま)を大切にし、善い行いを積み重ねることで人としての魅力がまし、キラキラと輝きを放つ。そんな素敵な人になれるよう努力する一年なら、それこそ素敵な一年に違いない。
2016.12 恩に報いる
 夫(それ)老狐(ろうこ)は塚をあとにせず。白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや。 【報恩抄】

 はやいもので、今年も残すところあと1ヶ月。毎年この時期になると、年頭に決めた目標を達成できたかどうかが気になるが、肝心の目標が何であったかどうしても思い出せない。
とりあえず、今年一年どんなことがあったか思い出してみよう。うまくいったこともあれば、間違ったことをしてしまったこともあった。うまくいったときには、それをねぎらい、声をかけてくれる人がいた。間違ったことをしてしまったときには、それを戒め、諭してくれる人がいた。そういう積み重ねで今の自分があると思うと素直にありがたいなぁと思え、胸のあたりがじんわり暖かい。
日蓮大聖人は、「年老いた狐は故里を忘れず、死ぬ時はかならず首をもと住んでいた丘に向けるし、毛宝という人に助けられた白亀はその恩を忘れず、毛宝が戦いに負けた時に水の上を渡して窮地を救った」という話を引用し、動物ですら恩を忘れず、その恩に報いようとしているのだから、ましてや人間ならば当然のことだとされている。
 昔話にも動物の恩返しの話は数多い。中でも「つるの恩返し」は多くの人が知っている話だろう。罠にかかっているところを助けてもらった鶴が女性に姿を変え、機を織って反物にし、助けてくれた人へ贈る。助けてもらった恩に対し、何をもって報いるのか。つるにとっては機織りであった。では、日々受ける恩に対して私たちは何ができるだろうか・・・
 まずは自らの一日を思い起こし、恩について考えることからはじめてみよう。どんな恩があるだろうか。大きな恩、小さな恩、みえる恩、みえない恩。明に暗に様々である。恩について思いを巡らせると、不思議と行動に出てくる。そもそも恩という字にはいつくしみや大切にするという意味がある。自分が受けるいつくしみの心に思いを馳せるとき、その心に暖かい優しさが生まれてくる。その優しさをもって日常をすごすとき、今度は周りの人があなたの優しさに包まれることだろう。
2016.11 名前
 法華経は日月と蓮華となり。故に妙法蓮華経と名く。日蓮又日月と蓮華との如くなり。 【四條金吾女房御書】

 名は体を表すということわざがある。名前はその物や人の性質、実体を表すものという意味合いだ。ならば自分は?と思い辞書をひっぱりだして自分の漢字を調べてみた。今の自分には似つかわしくないなぁと落胆しながらも、足りない部分は「のびしろ」だと言い聞かせて辞書を閉じた。
 我等が宗祖日蓮大聖人の名前の由来は法華経の経文にあり、如来神力品第21の経文に「如日月光明 能除諸幽冥 斯人行世間 能滅衆生闇」(日や月の光明によって、諸々の迷いを除くことができるように、この人が世の中に出て、活動すれば衆生の闇を除くことができる)とあり、ここに「日」の根拠があるという。「蓮」については従地涌出品第15に「不染世間法 如蓮華在水」(水中の蓮華のように世間の悪に染まらない清らかさ)の経文からとって「日蓮」と改名された。
 名付けることを「命名」というが、大聖人の名前は経文からただ二文字選び取ったということではなく、ご自身がこれから先の命をどう生きるのかという覚悟をこの二文字に込め、宣言することに重きが置かれていたのだと思えてならない。「名」のつくことわざには、虎は死して皮を留め、人は死して名を残すというのもある。人は死んだ後、名前が残るような生き方をすべきという意味である。大聖人は決して自分の名を残そうとして他宗を批判したり、幕府に進言したのではない。南無妙法蓮華経のお題目を一人でも多くの人に弘めたい。その一心であった。まさに名前のとおり、権力や名声に脇目も振らず、ただ一心に悩み苦しむ人に寄り添い、その助けとなろうとされたのである。
 大聖人のお気持ちや願いは、大聖人が亡くなって734年がたった平成の世にも受け継がれている。それを受け継ぐ一人として、自分ののびしろを信じて、日月が毎日大地を照らすように、不断の努力を心がけたい。「のびしろ」という言葉にあぐらをかいていては何も受け継ぐことはできない。
2016.10 頼りがい
 後世(ごせ)は日蓮の御房にまかせまいらせ候 【四條金吾殿御返事】

 誰であってもやったことがないこと、行ったことがない場所というのは不安がつきまとう。私にしても初めてパラグライダーをやった時は、飛ぶ前から落ちるんじゃないかと思ってしまい、無口な私の口がさらに固く閉ざされ、足に根がはってしまった。そんな時インストラクターさんが「大丈夫、指示通りにやればすぐ楽しめますよ」と言う。騙されたと思ってやってみると体は鳥のように空へと舞い上がり、素敵な景色を見ながら楽しい時間を過ごせた。その道に長けた人からの言葉によって、心が軽くなる。そういう言葉をかけてくれる頼りがいのある存在がいるというのはとても心強いものだ。
 私たち人間にとっての共通の不安の一つに「死」というものがある。後世(ごせ)、つまり死後のことは誰にも分からない。その不安を抱く人や今まさに死に直面する人に対して生涯を通して向き合ったのが宗祖日蓮大聖人である。宗祖の時代には天変地異がつづき、飢饉がおこり、明日自分がどうなるか分からない、そんな日々が続いていた。宗祖はその原因と対策を導き出そうと経文に当たり、その答えを生涯実践された。その答えというのが法華経、お題目の信仰である。宗祖自身、焼き討ちにあい、首を切られそうになるなどの苦難にあってきた。けれども、その度に信仰によって生かされてきた自分の境涯があったからこそ、悩み苦しむ信者の身になり、その境遇や心情に寄り添い続けることができたのだろう。
 宗祖が歩まれたご生涯、そしてそこから見いだされたお題目の信仰こそが、現代の私たちにとっての頼みであり、その尊いご生涯と南無妙法蓮華経のお題目に私たち自身が身を任せ、頼りとすることが大事なのであり、いわば宗祖は人生の案内役、その指南こそ法華経、お題目の信仰なのだ。
 10月、11月は宗祖の御会式が全国各地で行われる。大聖人に感謝の意を表し、心ゆくまでお題目をお唱えしていただきたい。
2016.09 基本が大事
 信なくしてこの経を行ぜんは、手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるが如し。

 7月、8月はお盆の時期だ。ご先祖様と共に過ごすこの期間に、是非「いのち」の繋がりを考えて欲しい。
 ものごとがうまくいくには基礎基本が確かでなければならないのは自明の理であろう。
 それはオリンピックに出場する選手であっても同様のことだ。リオオリンピックが始まる前、ウエイトリフティングに出場する三宅宏実選手の特集がテレビで組まれていた。彼女はロンドンオリンピック後に大けがを負い、満足に練習できなかったが、その中で取り組んだ1kgという軽いバーを上げ下げする基本練習の中で自分の力が最大限発揮できる形を見いだしたという。来る日も来る日も、この練習を繰り返し、迎えたリオオリンピックでは見事に銅メダルを獲得した。競技終了後、彼女がバーベルに駆け寄り、重りに顔を近づけて撫でる仕草は、これまで苦楽を共にした仲間への感謝の気持ちが溢れ出たようにみえて、思わず目から涙がこぼれた。
 信仰においての基礎基本とはなんだろうか?宗祖の御文にある通り、それは「信」である。基礎基本とは一朝一夕で確立されるものでもないし、上手くできるようになったからといってやめてしまっていいものでもない。三宅選手が行った1kgのバーを上げ下げする練習は、ウエイトリフティングを始めたばかりの子どもがやる練習だそうだ。それを世界トップクラスの選手がやるのだ。信仰も同じだ。信仰し始めたばかりの人、若い僧侶、そして老僧であっても「信」がなければ何も得られない。
 信仰の道程は果てしない。ただ、歩き出すのにも、歩き続けるのにも必要なのは立派な靴でもなければウェアでもない。「信」のみ心に抱いて、手を合わせる。ただそれだけだ。
2016.08 いのちの繋がり
 目連尊者が法華経を信まいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給。 
 上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給。【盂蘭盆御書】


 7月、8月はお盆の時期だ。ご先祖様と共に過ごすこの期間に、是非「いのち」の繋がりを考えて欲しい。
 上記の御文にある上七代を例に取ってみよう。自分を中心に考えたとき、自分に父親と母親がいる(2の1乗)。その両親にも親が2人ずついる(2の2乗)。その親にもまた2人ずつ親がいる(2の3乗)。このように7代遡ったときの先祖の数は2の7乗、つまり128人。合計は254人にのぼる。このうち誰か一人でも欠けてしまっては、今ここにいる自分はいないということになる。「いのち」の繋がれた結果が今ここにいる自分であり、その繋がりは人が生まれ、成長し、沢山の人と縁を結び、「いのち」を育むという長い時間の中で紡がれたものだ。その時間の流れの中にいる私たちが次の「いのち」に対してどう向き合うのか。自らが子供を産み、自らの子供を育てるだけが、「いのち」をつなぐことではないと思う。
 法華経には他者を軽んじない姿、敬う心等が説かれる。この法華経に示された姿を私たちが普段の生活で実践することが信仰であり、次の世代にみせることが「いのち」を育むことに他ならない。そうした他者を敬う姿を見た子供たちが、次の「いのち」の担い手となる。「いのち」の担い手を育むことも、「いのち」を繋ぐことなのだ。
 私の身内にも新しい「いのち」が増える。私たちも、ご先祖様もみんなが笑ってすごせる、そんなお盆が毎年迎えられるよう、今を生きる私たちが「いのち」を大切にし、敬い、育む。そんな「いのち」が一つ、また一つと増えたなら、ご先祖様もキュウリの馬でいち早く帰ってきてくれるだろう。
2016.07 動物への愛情
 くりかげの御馬はあまりをもしろくをぼへ候程に、いつまでもうしなふまじく候。常陸の湯へひかせ候はんと思ひ候が、もし人にもぞとられ候はん。【波木井殿御報】

 上記の御文は、宗祖日蓮大聖人が持病の静養のため常陸国の湯に向かわれた途中で書かれた手紙の一節だ。宗祖は自分が乗っていた栗鹿毛の馬に大変愛着を持たれ、いつまでもそばに置き、常陸の湯まで共に旅をしたいと思っていたが、その一方で、この先の旅で誰かに盗まれるかもしれない、大変で、つらい思いをさせたくないという思いから、泣く泣く信頼の置ける方の元に預けることにした。それに加えて、慣れない世話方では不安だからとこれまで世話をしてきた者をつけておきたいという文が後に続く。何が馬の為になるのかと考え抜かれた上での決断だったことが伺える。
 昨今は空前のペットブームといっても過言ではない。犬や猫は勿論、フクロウやサルなどもペットとして飼われているようだ。ペットが見せる仕草や愛くるしい眼差しは私たちを癒やしてくれる。そんなペットだからこそ、四六時中離れたくないというのも頷ける。だが、本当にペットの事を思うならばどうだろう?たまには、そっとしておく時間も必要だろうし、ただ愛でるだけでは片手落ちな気がする。かわいいペットもやがて命の果てるときが必ず来る。ペットからもらったたくさんの笑顔、今度は私たちがなにかできないか慮ってこそ本当の愛情だろう。
 七月を迎え、お盆の季節がやってきた。ご先祖様を迎えるキュウリの馬、お土産とともにご先祖様をお送りするナスの牛が各家々で活躍する。役目を終えたならば、頑張ってくれたこの馬や牛にも心を砕いてもらいたい。
2016.06 自分を成長させてくれる存在とは? 相模守殿こそ善知識よ。【種種御振舞御書】
 ある日曜日の夜、電車に乗っていると部活帰り風の二人組の女子高生の会話が耳に入ってきた。内容は全く覚えていないが二人の明るい話し声から充実した週末だったことが伺える。そんな中、スマホを取り出して女子高生がこう言った。 「あぁあ・・・。『いいね!』ボタン、ガンガン押してくれる友だちがほしいなぁ」 そんな言葉が耳に止まった。『いいね!』ボタンとはネット上で、ある特定のコンテンツが好き、楽しい、支持できるといった意思を示す機能である。いいね!をしてもらうとなんだか嬉しくなる。そんな経験を私もしたことがある。だが、共感し、認めてくれる存在のみで今の自分より、よりよく生きることができるだろうか?
 上記の御文にある相模守殿とは宗祖日蓮大聖人を佐渡流罪に処した張本人、時の執権 北条時宗だ。宗祖にとっては自らの命を危機的状況に追いやった人物なのだが、宗祖はそんな北条時宗こそ仏教の正しい道理を教え、利益を与え導いてくれる善知識だといっている。宗祖は佐渡の厳しい環境で生きる中で、末法の時代に生きる人々を救う真の宗教(本門八品上行所伝本因下種信行の南無妙法蓮華経)を見極められたのだ。
 自分の意見や行いに無条件に賛同してくれる人には何となく近寄りやすい。でも自分にとって本当に必要なことは耳が痛いものであったり、苦労した末に見いだせることが多い。私も修行時代、友人に辛辣な言葉をかけられた。その時はなんだと!と、思ったがその言葉がどこかひっかかって自分を見つめ直すきっかけになった。
 自分にとって耳が痛い言葉や苦しい状況をどれだけ素直に受け止められるかで明日の自分が変わってくる。ネットで自分の書き込みや写真に共感してくれる人も大事だろう。だけれども自分の痛いところをついてくれる存在も毛嫌いせず真摯に向き合ってほしい。そういう存在こそ自分を成長させてくれるのだから。
2016.05 妄語(もうご)せざる時はありとも、妄語をせざる日はあるべからず。 設(たとい)日はありとも、月はあるべからず。設(たとい)月はありとも、年はあるべからず。設(たとい)年はありとも、一期生妄語せざる者はあるべからず。【顕謗法鈔】
 妄語とは「うそをつく」ことで、仏教では五戒の一つに、うそをつくことを戒めている。小さい頃、「嘘つきは泥棒の始まりだよ」と言われたが、生まれてこの方、いくつ嘘をついてしまっただろうか。人を驚かせようとか、自分を守るためとか、失敗を隠すためとか。
 数年前だったか、家族に対してある嘘をついた。私としては他愛もない、冗談のつもりだったが、嘘がばれると家族から「冗談に聞こえない!」と叱られた。なんとも嘘とは後味の悪いものだろうか。
 嘘をつかない時間、嘘をつかない日、嘘をつかない月があったとしても、嘘をつかない年、一生嘘をつかない人、そんな人はいないだろう。嘘つきは泥棒の始まりというが、かの大泥棒カンダタは、地獄から逃れようと極楽から垂れてきた蜘蛛の糸をたぐり自分だけ助かろうとし、最後には蜘蛛(くも)の糸がぷつりと切れて地獄へと再び落ちていく。
 嘘も積み重なれば、いずれは浅ましい自分へと変わる土台となってしまう。その土台とは私たちの心に他ならない。そんな心にならない為に今一度、手を合わせ、お題目を唱えて自分を振り返る事が必要だ。 嘘の右側の「虚」には「むなしい」という意味がある。一方で、虚心といい、ありのままを素直に受け入れること、心にわだかまりがないことをも指す。実に紙一重だ。自らのむなしい心が口をつくのが嘘ならば、その嘘に気づいて自らの心を振り返る。いけないなと心に留め置き、反省した心が虚心だろう。 風薫る五月。私の心も新緑の葉を揺らすさわやかな風のようになるよう、今日もまたお題目を唱えよう。
2016.04 御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ。 『檀越某御返事』
 4月は新しい生活を始める人が多くいる。新しい生活が始まるということは、縁がうまれ、新しい人間関係ができるということだ。その中で仕事に対して、あるいは人付き合い等の不安を覚える方もいるだろう。出来ることなら平穏無事に仕事も人付き合いもこなしたいと思うのが人の常だろう。だが、仕事や相手のことをよく知らないから上手くいかず、悩むこともあるだろう。挙げ句の果てに、こんな仕事になんの意味があるんだ!なんであの人はこうなんだ!と自暴自棄になってしまうこともあるかもしれない。
 日蓮大聖人は信者への手紙のなかで「君主につかえることを、法華経を実践していることだと考えなさい」と示している。法華経には大事なことの一つとして「どんな相手も軽んぜず、敬う」ということが説かれている。いい結果が欲しいと焦らず、まず他に対して敬う心で接し、上手くいかなくとも、誠意を持って取り組むことが肝要だ。法華経の実践によって自分の心が磨かれ、仕事や人間関係を通して素敵な自分へと成長していくことで、結果的に良好な人間関係を構築し、誇りをもてる仕事へと変わっていくことだろう。
 この春、同じ職場の同僚が新天地へと羽ばたいていった。彼の大きさを感じると共に、新天地でもこれまで同様、誰にでも優しく真心をもって接する姿でいることを願うばかりだ。
2016.03 法華経の行者の祈のかなはぬ事はあるべからず。『祈祷鈔』
 私の中で 3月といえば卒業だ。一緒に馬鹿をやった同級生、親しくした先輩や後輩、慣れ親しんだ学校と別れるのはさみしい反面、新たな生活に期待で胸を膨らませる、そんな月だった。
だが、東日本大震災で私の中の 3月は悲しみの一言に塗り替えられた。
 大地震と津波によって2万余名の方が亡くなった。2万余名という数はただの数字ではない。その一人一人に親がいて、友がいて、時には笑い、時には泣きながら歩んできた、まぎれもない「人」の数なのだ。
 景色も大きく変わってしまった。部活の合宿で何キロも走った松が茂る砂浜。当時はもう見たくもないと思ったあの松が茂る砂浜は、今はもうない。
 あれから 5年の歳月が流れる。悲しみに支配された私の中の 3月に「祈り」が加わった。今を生きる自分に何ができるのか。
 亡くなった方々の成仏を祈り、被災地の復興を祈り、被災された方々の心の復興を祈る。たくさんの人の祈りが、被災した人や土地が立ち上がり、前に進む糧になればと願ってやまない。
2016.02 かくれ(隠)たる事のあらはれ(顕)たる徳となり候なり。 「崇峻天皇御書」
 上記の御文は人知れず行った善い行いが、外にあらわれてその人の徳となるということだ。 ある日、混み合う電車の中で吊革につかまっている老人に席を譲った若者をみた。どこか恥ずかしそうにうつむく若者。そんな若者に「ありがとう」の感謝の言葉が贈られた。うつむき加減の若者は降りる駅がきたのか、そそくさとその車両を後にした。それでも若者がした良い行いの徳は周りを温かく包んだ。ゆずられた老人のほっこりした笑顔、その様子を少し離れたところで見ていた私も胸のあたりがなんだかあったかい。私だけじゃない。ほかの乗客も若者の優しさに触れどこか顔がほころんでいる。
 優しさの底には「敬う心」が流れている。「敬」の語源をひもとけば、うやうやしく神に仕える心に行き着く。普段の私たちにもこの心が求められる。だが、「神に仕える心」とは、なかなかイメージがわかない。
ならば手を合わせて、相手の心と向き合おう。そこから生まれる振る舞いが「敬う」ということに違いない。自分が実践すれば、自分が変わり、いずれ他をもかえられるだろう。あの若者のように敬う心が育てば、温かい空気を運ぶことができるに違いない。
2016.01 人に物をほどこせば我身のたすけとなる。譬へば、人のために火をともせば、我がまへあきらかなるがごとし。「食物三徳御書」
 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。
とかく、私たちは自分のことを第一に考えがちになることが多い。もちろん私もそのうちの一人だ。「これは自分の分だ!」と物を囲い込んでしまうこともよくあることだ。きっとそんな私の顔は輪をかけて浅ましいことだろう。常日頃から上に挙げた御文のような心持ちで過ごせるようになりたいものだ。
先日借りたある方の遺稿集の中の一説に、「箒をもって庭を清め、雑巾によって板間を磨く事は他人の為のように思っていたのだが、この頃ようやく自分自身の一分を清めるという事だと感ずるようになった」という部分があった。まさに日蓮大聖人のお言葉を体現されたのだ。
この方には私が中学生時分にたった一度お会いしただけだったが、今になってもう一度お目にかかりたかったなぁと目頭が熱くなった。あのお方のような境地にいたるのは私には到底無理だろう。ただ、年の初めに届いた年賀状に綴られた沢山の「今年一年のご多幸をお祈りします」の文。いただいたこの言葉を自らの心に宿し、今度は別の人にこの心でもって接する一年にしたいと思う。「俺のだ!!」といってた私も、「お一つどうぞ」と言えるようになれるよう今年一年も頑張ろう。
2015.12 小罪なれども、懺悔せざれば悪道をまぬかれず。大逆なれども、懺悔すれば罪きへぬ。「光日房御書」
 ちょっと前まで蝉がけたたましく鳴いていたかと思えば、いつの間にかコオロギの声にかわり、最近ではその声も聞こえなくなってきた。そのかわりといってはなんだが、クリスマスイルミネーションが目を楽しませてくれる季節になった。思い起こせば今年の一月にどんな思いでこの一年を過ごそうか思案したが、いくつ実行できただろうか。目標や予定を書き留める手帳は次月をめくることはあっても、先月を見返すことはなかなかない。ましてや一月ともなればなおさらで、一日という時間の流れに身を任せ、明日へ明日へと流される。
 だが一年の終わりに、今の自分はどうなのか見つめ直してみてはどうだろうか。今の自分は昨日の自分の積み重ねである。一生懸命頑張った昨日の自分、悲しくて悲しくて目を真っ赤に腫らした一昨日の自分、全部ひっくるめて今の自分がある。そんななかで嘘をついたり、怒りにまかせて怒鳴ったりした自分がいたかもしれない。普段の生活の中で小さいながらも私たちは罪を重ねている。そんな自分を省みなければ、明日の自分は文字通り悪道を一歩、また一歩と進んでしまう。
 何故あんな事を言ってしまったのだろう。あんな事しなければよかったと、自分の胸に手を当てて振り返れば一つや二つ、三つや四つ、五つや六つ・・・数限りなく思い出される自分が情けない。その手を今度はそっと胸の前で合わせお題目(南無妙法蓮華経)を唱える。これが今の自分であることを認めなくてはならない。そこから今度はあんな事は言わない、あんな事をしない自分への一歩を踏み出すのだ。お題目はその力を与えてくれる。一歩を踏み出す人の背中を押してくれる。そうやって昨日の自分を越えていこう。明日の自分に胸を張れる自分になろう。大それた目標も大事だが、毎日の積み重ねが無ければ越えられる壁も越えられない。一日で越えられない壁は二日かかって越えればいい。いつでもお題目は力を与えてくれる。 また来年も、元気に笑って過ごせるように、この一ヶ月、胸に手を当て、そしてその手を合わせ過ごしていこうと思う。
2015.11 女人となる事は物に随って物を随える身也。夫楽しくば 妻も栄うべし。「兄弟抄」
 日本には語呂を用いた「◯◯の日」が沢山ある。例えば3月3日は桃の節句だが、「耳(3.3)の日」でもある。また1月5日は受験勉強で忙しい15歳を応援する「いちご(1.5)の日」というのがあるそうだ。数ある「◯◯の日」のなかでもよく聞くものに11月22日「いい夫婦(11.22)の日」がある。
 女性は結婚し、嫁入りすると2つの新しい生活が始まる。夫との生活と夫の「家族」との生活だ。特に「家族」の習慣や暗黙の了解といったものは、家族の数だけ異なる。初めのうちは、その違いに戸惑い、面食らうこともあるだろう。しかし時間を経るごとに次第にお嫁さんの色も加わり、また新しい「家族」が出来上がる。これが、日蓮大聖人がいうところの「物に随って物を随える身也。」ということだろう。
夫が楽しければ、妻も栄えるとあるが、きっとまた逆もしかり。妻が楽しければ、夫もまた栄えるに違いない。自分だけが楽しい、幸せだと感じているのは真の幸せではない。相手が楽しい、幸せだと感じてくれることが自分の幸せにもつながってくる。これが真の幸せに違いない。自分だけが快適で楽しい生活をしようとしてしまうと相手に対する感謝の気持ちが足りなくなってしまう。例えば朝起きて、当たり前のように朝ご飯が出来ている。何も言わずにドカッと腰を下ろして、料理に箸を付ける。ここで一言ありがとうと言えるなら、自分も相手にとっても素敵な一日の始まりとまでは言わないが、どこか優しいあったかい一日が始まるのではないだろうか。
 かくいう私も昨年の「いい夫婦の日」に結婚し、感謝の気持ちを忘れまいとしているが、日常に流され、ついつい感謝の言葉がおざなりになってしまう。しかも感謝の言葉がすんなり出てくればいいが、ちょっと気恥ずかしいところもあるから厄介だ。だが、こんな私に尽してくれる妻に対して、語呂の力を借りて、私の気持ちを込めてささやかな贈り物でも考えてみよう。1月31日(愛妻の日(I.31))が丁度よさそうだ。
2015.10 宅(いえ)に柱なければ保たず、人に魂なければ死人なり。「種々御振舞御書」
 私が小さい頃住んでいた家のある柱には、私や弟妹の成長の軌跡が刻まれ、その当時流行していたキャラクターのシールが貼られ、私の下手な字が書いてあった。あるときには、はしゃいで走り回り、柱にぶつかって泣いたこともあった。それをみて家族は心配そっちのけで大笑い。そんな空間を作ってくれていたのが、家であり、それを支えていたのが柱である。家が家としての役割を果たすには、しっかりとした柱があってこそだ。
 人にとっても同じ事がいえるのではないだろうか?人が幸せな人生を送りたいと思ったとき、思っただけでは幸せな人生は手に入らない。自分の中に一つ柱を立てて、それに従って毎日を生きたときに、自ずと幸せを感じられるのではないだろうか?
 法華宗を開いた日蓮大聖人は法華経、南無妙法蓮華経を心の柱とされ、幾度となく繰り返される迫害にあっても、全ての人々が仏になれるよう、安心して暮らせるように南無妙法蓮華経を弘通された。大聖人と同じように私たちが生きるのは難しいが、大聖人が命をかけて弘められた南無妙法蓮華経を心の柱とし、他者を少しでも思いやって生きていきたい。 10月、11月は全国各地で大聖人の御命日の法要「御会式」が営まれる。私たちの心の柱たる南無妙法蓮華経を心に立てて、お題目を唱えて、南無妙法蓮華経を残して下さった大聖人に感謝の心を示し、より心の柱を確たるものにしていただきたい。
2015.09 月は山よりいでゝ山をてらす。わざわいは口より出でゝ身をやぶる。さいわいは心よりいでゝ我をかざる。「重須殿女房御返事」
 出来ることなら、今発した言葉をもう一度自分の口に戻したい!そんな経験は誰しもが少なからずあるのではないだろうか。
昔、友達と喧嘩をしているとき、私が発した言葉が相手をたたきのめしてしまった。その喧嘩はそこで終わった。喧嘩に勝ったはずの私であるが、私の心に晴れやかさは微塵もない。むしろ、暗く重いものがどっしりと居座ってしまった。それから数日、その友達とは口もきかず、目も合わさない日が続いてしまった。
 一方で、中学一年生の時、野球部員だった私は、先輩達の試合をスタンドから応援していた。毎日、一生懸命練習する先輩達が、普段通りのプレーを出来るようにと、声を嗄らして応援した。試合後、先輩から「ありがとう。ホントに力になった。また頼むよ。」と声をかけてもらった。私の声が先輩の力になったと知り、とても嬉しかったのを覚えている。
 いがみ合う中で発せられた言葉は相手だけではなく、自らの心を暗くさせ、その結果、せっかくの関係が壊れそうになってしまった。かたや、相手を思い、相手を敬う行動は、相手だけではなく、自分も幸せな気持ちにしてくれた。相手を敬い、真心で普段(不断)を生きることは、相手を幸せにし、自分が幸せだと気付かせる心を呼び起こしてくれる。その心とは、当たり前のことが実は有難いことだと感謝する心。そんな心を持っている人はきっとキラキラと輝いているに違いない。そんな人に私もなりたい。
2015.08 蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。「崇峻天皇御書」
【蔵の財である金銭や物品などの価値は絶対ではなく、時や場合によって変化し、時には一瞬にして無価値になってしまう。これよりは身の財である自らの健康や学識、教養などは儚いものではない。しかし、この身の財も自らの幸福のみを目的にするのではなく、世界全体の幸福が目的で、これを願う心、心の財が第一である。】「崇峻天皇御書」(参考:株橋日涌著 法華法話集 東方出版)
 「先立つものがない」といえば、「お金がない」と想像がつく。辞書をひいても「ある目的を達成するために必要な金の婉曲(えんきょく)な言い方。」(大辞林第三版)とあり、何かを成し遂げるためには、まずお金が必要だ。
 だが、何かを成し遂げようとせっかく貯めたお金も自分の体がしっかりしていなくては、なにも成し遂げられず、道半ばで終わってしまう。
 そもそも、何を成し遂げるかは自分自身の心で決める。その心が健全でなくては、得られる結果はどうなるだろうか?
 世間を騒がせているとある名門企業の経営理念は、人を大切にし、豊かな価値を創造し、社会に貢献するというものだそうだ。長年、使う人の身になり、もっと豊かな生活が送れるようにと思いを巡らせて、一歩一歩、歩みを進め、名実ともに日本を代表する企業となったのだろう。しかし経営の舵を取る船頭の心はいつの間にか、違う高みへと舵をきった。その結果が信用や信頼というお金には変えられないものの喪失だ。
 人ごとではない。私たちも様々な選択をしながら生きていく。よりよい選択をするためにも自らの心を養わなくてはいけない。法華経は揺るがない指針であり、お題目は何よりの妙薬である。信じて唱えることで、知らぬ間に心が清く豊かになる。その心で日々を生きれば、親からもらった体、仲間、今手元にあるお金、色々なものがありがたいと感じてくるだろう。先立つものがお金ならば、先立つ心は法華経、その心を養うのはお題目にほかならない。

四大本山

  • 大本山 光長寺
  • 大本山 鷲山寺
  • 大本山 本能寺
  • 大本山 本興寺

今週の法華宗行事予定(3.17〜3.23)

3.17
・彼岸会入題目
【大本山光長寺】
・春季彼岸会(~23日)
【大本山鷲山寺】
・彼岸会入法要・永代祠堂法要
【大本山本能寺】
3.20
・彼岸会中日法要・永代祠堂法要
【大本山本能寺】
・春季彼岸会
【大本山本興寺】
3.23
・彼岸会結願法要・永代祠堂法要
【大本山本能寺】
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